ハマを駆け抜けた若草色の電車の話 その1 | 夜汽車の汽笛への憧情

ハマを駆け抜けた若草色の電車の話 その1

毎度ご覧いただきありがとうございます。

 

遅くなりましたが、今年初の投稿になります。

今年もマイペースで行きたいと思いますが、よろしくお願いいたします。

 

今年最初の記事は年末に紹介した昭和の電車のうちの一つ。相鉄6000系について、もう少し詳しく書いてみたいと思います。

前回の記事と内容が一部重複しますが、予めご了承ください。



これが相鉄6000系です。若草色で塗られた、シンプルながらどこか野暮ったい雰囲気の顔つきが、いかにもローカル私鉄のただずまいで、いかにも昭和な雰囲気と独特の風味を醸し出していますねw

 

相鉄6000系は1961年(昭和36年)に登場した、20m級の通勤形電車です。

相鉄としては初の鋼製の両開き4扉車で、1974年まで総勢190両製造されました。


そのうち、1961〜1970年に製造されたグループと1970〜1974年に製造されたグループでは制御回路以外は大きく仕様が異なっており、前者が旧6000系(上写真左)、後者が新6000系(上写真右)と呼ばれます。

(新6000系は公式な名称になってます)

 


相鉄こと相模鉄道は今でこそJRとの直通運転まで行う大手私鉄の仲間入りをはたしていますが、30年前までは中小私鉄でした。(当時は準大手と呼ばれていました。)

路線延長も、1975年のいずみの線開業までは24km余りにすぎず、「横浜のローカル私鉄」と言った風情でした。とはいえ、流石にそこは横浜。同社のニュータウン開発なども沿線人口の増加も著しく、大型の車両を増備して急増する需要に対応する必要がありました。そんな中で登場したのがこの6000系というわけです。


6000系登場当時の相鉄の車両陣は戦後の影響が色濃く残っており、旧型国電の戦災復旧車やその互換品とも言える電車(2000系や3000系)が中心である中、モノコック構造の軽量車体にカルダン駆動でオール電動車という、いわゆる「高性能電車」と呼ばれる5000系が「掃き溜めの鶴」の如く活躍するという状態でした。

5000系は高性能ではあるものの、ボディーマウント構造をとったため保守性が悪く、また全電動車方式であるため高価とならざるを得ない状況でした。また、MM'ユニット方式を採用したものの、編成の組成の柔軟性には欠けるきらいがありました。固定編成が主流の現代ならばさしてデメリットというわけではありませんが、当時は旧国由来の電車が大勢を占めていたので、MM'ユニット方式により編成の組み替えが最低2両単位となることは、よりデメリットとしてクローズアップされたものと思われます。

ところで、5000系は当時の関東私鉄標準と言って良い18m3扉片開きの車体でしたが、相鉄は建築限界に余裕があり、国鉄から旧63形である割り当てを受けた3000系が在籍していました。3000系は片開きながら20mの大型車体に片側4扉で、通勤時間帯の輸送には大きな威力を発揮していました。また、当時国鉄では101系が登場して両開き扉による乗降時間の短縮に成果をあげていました。

そこで、6000系では上記の生かし、以下のような仕様とすることになりました。


・編成の組成の柔軟性を保持するため、電動車には制御器、パンタ・MG・CPを搭載し、1両でシステムが完結する1M方式とする。また、正面には貫通扉を設けて運転室部分は通り抜け可能とする。

・車体は20m片側4扉両開きとする。

・製造コストを抑えるため、1M1T構成を基本とする。これに伴い、加減速性能を維持するため110kwの大出力(当時としては)電動機を搭載する。

 

上記の他は基本的に5000系で採用したシステムを踏襲しており、ブレーキは電磁直通ブレーキを採用しています。ただし、5000系で採用した電気ブレーキは経緯は不明ですが省略されました。(一説には具合が良くなかったとされています。)

ちなみに、相鉄に採用された電磁直通ブレーキは他社のものと異なり、通常はハンドルの操作角に応じて自動でブレーキ圧を固定する「重ね」が行われますが、相鉄の方式ではブレーキ管の圧力が所定の位置に達したら圧力を固定させるため「重なり位置」に持っていく操作が必要で、操作が自動ブレーキに近いものとなっていました。(日立式電磁直通ブレーキとも呼ばれています。)

台車は乗り心地に優れた、軸箱支持にウイングバネ式、枕バネはベローズ式の空気バネ台車を採用しています。

台車のブレーキは最初期の車両には一般的な踏面式のものでしたが、途中から放熱性が良く滑走に強いと呼ばれるディスクブレーキに変更されています。(ただし、踏面ブレーキの方がブレーキパッドで踏面を清掃できるため、空転に強いという説もある)



特筆すべきは上の写真の様に電動車にもディスクブレーキを採用したことで、通常は電動車の台車には電動機や駆動装置が存在するためブレーキディスクを納める場所が取れないので、付随車にはディスクブレーキを採用しても電動車については踏面式にするケースが多いのですが、相鉄の場合はいわゆる「パイオニア台車」で採用した軸箱の外側にブレーキディスクを配置する方式を採用することで、電動車にもディスクブレーキが搭載されることになりました。なお、保守方法を共通化するためか、付随車についても軸箱の外側にディスクブレーキを配置しており、ブレーキディスクが露出した形になっています。(通常は軸受けの内側に配置され、ブレーキディスクは線路方向から覗き込まないと見えないのが普通です。)

 

駆動方式は5000系に続いて直角カルダンを採用しています。

もともと直角カルダンは、駆動装置と筐体の大きい大出力モーターを狭軌の台車に納めるために、モーターを線路と平行に装架することで駆動装置のスペースを確保するという、カルダン駆動のごく初期(昭和26〜30年頃)に採用された駆動方式ですが、昭和30年代に入ると、狭軌でも継ぎ手形状の工夫によりスペースの確保を可能にした中空軸式平行カルダンや電動機形状の工夫によりWN駆動方式といった平行カルダン方式の方が主流となっていました。にもかかわらず、経緯は不明ですが相鉄では6000系でも直角カルダンを堅持しています。

なお、この外側ディスクブレーキと直角カルダン駆動は以降の相鉄の標準となり、9000系まで採用され、相鉄車両のアイデンティティーとなっていました。

 

制御方式は一般的な電動カム軸式直並列組み合わせ抵抗制御及び弱め界磁制御で、制御装置は4モーター制御で日立製のMMC-HT10系が使用されていました。

主電動機は日立のHS-514系で出力110kwでした。細かくは初期型と後期型の2種類が存在しており、初期型のモーター装備車(6001〜6014及び6101〜6112)は起動時に甲高いモーター音が響くのが特徴的でした。ちなみにこの甲高い音が個人的にかなりお気に入りでしたw

反面、後期型モーター車(6015〜,6113〜)はほとんど電動車の音らしい音がしない静音電車でした。速度が上がってくると直角カルダン特有の唸りは聞こえてくるものの音量は極めて小さく(これは初期車も同様)、モーター音好きとしてはかなり物足りない思いをしたものでしたw

設計最高速度及び運行最高速度はともに100km/hです。相鉄線内は駅間が短い上に案外カーブが多く、そもそも100km/h出せる場所すら限られている状況で、これで必要十分だったと言えるでしょう。

 

車体は上記で書いた通り、20m級の大型車体に片側4扉両開きという、通勤形電車としては一般的な構成ですが、実は関東私鉄としては最初の両開き4扉の大型車ということになります。(私鉄全体では近鉄6800系が最初となります)

窓配置は他社で見られない独特なもので、先頭車では運転台直後に2人がけの座席が設置され、中間車では前方と後方で座席数が異なる構成となりました。これに合わせて、窓配置も先頭車では乗務員室直後に窓があり、中間車はドアと車端の間に片側は窓一つ、片側は窓2つと前後非対称な配置となりました。このレイアウトは関西私鉄などの21m級の車体をもつ車両では見られる配置ですが、20mの車体では珍しいものと言えます。このため、一人当たりの座席幅は410mmとなりちょっと窮屈な感じになっていました。あくまで私見ですが、当時国鉄101系以外に両開き4扉車がおらず、同社には3000系という63形譲り受けの片開き4扉車がいたことで、とりあえず3000系の63形ボディーを両開きに直した様なレイアウトにしたのかもしれません。流石に一人当たり410mmというのは窮屈過ぎたようで、後述する新6000系では他社と同様な窓・座席配置となり、座席も430mmと他社並に改良されました。

上の写真の上側が新6000、下側が旧6000です。
旧6000のほうが変則的な窓配置であることがわかりますね。

車体色は紺と灰色をベースに赤帯を入れた複雑な塗装でしたが、塗装の手間を省くため1974年から写真のような若草色にモスグリーンとオレンジの上下帯を配したのシンプルなものになっています。

ドアは鋼製でHゴム固定窓の当時としてはごく普通なものでしたが、冷房化と前後してステンレス製で金具抑えの、見た目がスッキリしたものに交換されています。

屋根は張り上げ式で側面の雨樋が隠蔽された形となっており、国鉄車に比べると丁寧な雰囲気です。登場当時は種別表示が存在しませんでしたが、後年に設置されています。なお、行先方向幕については廃車まで設置されませんでした。

前面は通り抜け可能な貫通扉付きの切り妻構造で、額に大型のヘッドライトを配置。窓はHゴム固定で大型のものが並ぶシンプルな形状となっていました。行先表示は縦書きのものが貫通路に取り付けられました。

後年にヘッドライトがシールドビーム2灯式に変更されましたが、1灯時代のキセを埋めた跡が残っており、やや不恰好な形になってしまっていました。また、列車種別及び運行番号表示の追設が行われましたが、助手席側の前面窓内側に設置され、客室側からの前面展望が阻害される形となってしまったのは残念なところです。


通風器は戦後の電車としては珍しいガーランド式となっていました。また、パンタグラフは戦時設計で旧型国電に使用されたラーメン構造のPS13で、ベンチレーター、パンタを含めて屋根上は当時最新の車体構造とは反するクラシックな雰囲気になっていました。



冷房装置は登場当時は非搭載でしたが、1980年頃から順次搭載され、1987年までに全車が冷房車となっています。なお、この時に電動車に搭載されていた小型のMGは撤去され、付随車及び制御車に大型のMGが搭載されるようになりました。

 

車種構成は、横浜寄り電動制御車のモハ6000形、中間電動車のモハ6100形、付随車のサハ6600形、海老名より制御車のクハ6500で、旧型国電同様固定編成という概念はなく、需要により柔軟に編成されていました。

登場当時は2両編成や4両編成が主体でしたが、沿線人口の増加に伴いどんどん編成は伸びていき、最終的には後述する新6000系も交えて8両編成が基本で、10両編成が組成されることもありました。


ところで、6000系は製造途上で細かい改良がなされており、中でも非常に大きな特徴を持ったものが存在しています。

一つはMM'ユニット式の試作車であるモハ6144、6145です。6000系は補助機器をオールイン1として柔軟な編成を組めるのが「売り」になっていましたが、昭和40年代半ばともなってくると編成の固定化が進んできて、柔軟に組めるシステムも必ずしも長所とは言えなくなってきていました。そこで、モハ6100形の最終ナンバーとなる6144と6145は試験的にMGとCPを分散して持たせてユニット構造としており、これが新6000系に生かされる形となっています。

もう一つはアルミ車体の試作車であるモハ6021です。昭和42年に車体軽量化を模索するため、電装品などは従来通りとして車体の材質をアルミとしたもので、車体色は塗装が省略されてアルミの地色を生かした銀色となり、正面貫通路にアクセントのため赤色が配置されました。

アルミ車体は一定の効果があったため、相鉄を1970年からの2000系の車体更新を初め、9000系までのアルミ車体王国へ導く礎となっています。


さて、6000系は相鉄の主力として増備が行われて120両の勢力となりましたが、時代の変化により仕様が見直されることになりました。そこで各種仕様変更が行われて1970年に登場したのが新6000系です。


大きな変更点は以下の通りです。

 

・混雑に応じた車体幅の拡幅による車内空間の拡大。

・座席配置の見直し。

・保守や製造コストを考慮して、電動車を1M方式からMM’ユニット方式へ変更。

・いずみ野線開業を考慮した高速化対応。

 

これにより結構大掛かりな仕様変更となり、同じ6000系を名乗りつつも実質別物の電車になりました。

一番大きいのが車体デザインの変更で、拡幅車体となったことに伴い前面構造も変更され、当時流行の高運転台方式が採用されました。また、ライトもシールドビーム2灯を腰部に配置するように変更されました。このため、貫通路を含めて横長の窓が並ぶようになり、どこか東武8000系を思わせるようなデザインになりました。



側面は独自色の強い座席・窓配置から関東の4扉車では一般的な窓配置になり、中間車は前後対称となり、先頭車は運転台直後の窓がなくなりました。これに伴って一人当たりの座席幅も430mmに拡大されています。

足回りもMM'方式となったことで大きな変更が行われています。抵抗器と制御器は奇数番号車に、コンプレッサー、補助電源を偶数番号車に分散配置しています。制御器は8個モータが制御可能なMMC-HT20系に変更されています。補助電源は当初SIVを搭載していましたが、1971年以降は冷房を搭載する関係で大型のMGを搭載しています。

主電動機は日立のHS-515Arbで、出力は130kwに増強されました。このため走行音も変わっており、出足は控えめながらモーター音が、速度が上がってくると音量はかなり控えめながら直角カルダン特有の唸りと甲高いギア鳴り音らしき音が聞こえてくるようになりました。これは後に登場する7000系ともよく似た音になってます。

なお、一部の制御車は旧6000系と編成を組むために、冷房化時に大容量のMGを搭載しています。

冷房装置については、当初は非搭載で登場しましたが、1971年に試作冷房編成が登場。1972年以降は製造当初から冷房付きとなりました。非冷房車については後年冷房化されています。

なお、非冷房車は当初ドア窓がHゴム支持となっていましたが、冷房車は製造当初から金具固定となりました。非冷房車も追って金具固定の窓に変更されています。

 

車種構成は、横浜寄り制御車のクハ6700形、中間電動車のモハ6300形、海老名より制御車のクハ6500で、クハ6500形は旧6000系からの続番号になっています。

基本的な編成は6700-6300(奇)-6300(偶)-6500の4両となっていて、典型的な編成は4両ユニットx2の8両編成となっていました。とはいえ、固定編成という概念はなく、検査周期や旧6000系との組み合わせにより中間の電動車とクハが入れ替わることもしばしばでした。

新6000系といえば特筆すべきは8両3編成のグラフィックカーでしょう。

最初に登場したのは「いずみの線沿線の花と自然」をモチーフとした、花を車体に描いた「ほほえみ号」で、1983年に登場。当初2年間の予定が公表のため1991年までの8年間運行されました。

次は「緑園都市号」で1987年に登場。こちらは「横浜八景」をテーマとする横浜の様々な名所がイラスト化されて車体に描かれており、引退する2003年まで運行されました。

最後は「アートギャラリー号」で1989年に登場。こちらは「楽園シンフォニー」というテーマでいかにも「芸術」な感じの模様が車体に描かれています。こちらも引退する2003年まで運行されました。

これらのグラフィックカーは地味な相鉄の電車の中では目を引く存在となっていて、「相鉄名物」よ呼んで良い様な存在だったと思います。

 

さて、6000系は相鉄の進展期の電車であるため、新旧合わせて色々な編成を見ることができました。これが相鉄6000系を語る上での一つの興味深い点にもなっています。

新6000系の制御回路は旧6000系と揃えられているため混結は可能で、旧6000系のユニット試作車が常態的に新6000系の制御車に挟まれてい編成も存在していました。(クハはそれぞれ6500,6700が18両ずつ作られたのに対し、モハ6300は17ユニットしか製造されなかった)

 

ここでいくつかの典型的な編成と、面白い編成を紹介しましょう。

 

4両編成時代

←横浜

6000-6600-6100-6500(旧)

6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

4両編成の基本的な編成です。旧6000系登場後から新6000系登場直後くらいはこんな感じだった様です。

 

6両編成登場後

←横浜

6000-6600-6100-6500(旧)-6100-6500(旧)

6700-6100-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

6両延伸後です。

旧6000系の方は基本的な4両にモハとクハを足した旧6000系の特性を生かした編成。

新6000系の方は1M1Tで2両追加することができないため、旧6000の電動車(モハ6100形)を挟んでいるのが面白いところです。

 

7両編成

←横浜

6000-6600-6100-6500(旧)-6100-6100-6500(旧)

6000-6600-6100-6600-6100-6100-6500(旧)

6700-6300(奇)-6300(偶)-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

一時期7両編成というのも存在した様です。

旧6000系の方は当時の相鉄には珍しい綺麗な貫通編成もあった様ですね。

新6000系の方は基本的な4両からクハを1両抜いた形になっています。

Web上の写真で見つけたのはこのパターンですが、クハ6700を抜いたパターンもあるのかもしれません。

 

8両編成

6000-6600-6100-6500(旧)-6000-6600-6100-6500(旧)

6000-6600-6100-6500(旧)-6100-6100-6100-6500(旧)

6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

6700-6100-6100-6500(新)-6700-6100-6100-6500(新)

6700-6300(奇)-6300(偶)-6300(奇)-6300(偶)-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

長期間見られた8両編成です。

旧6000系の方は1番目は基本的な編成を2つ繋げた編成。2つ目は新6000系以降の電車と性能を合わせるためか、5M3Tの強力編成になっているのが特徴です。どちらかといえば2つ目のパターンの編成をよく見た気がします。

8000系や9000系での置き換えが始まったあとは、検査期限や車両の状態によってバラバラに除籍が行われたため、モハ6100の代わりに運転台付きのモハ6000が連続して連結されたりといった気動車の様な編成も見られました。

3番目の新6000系は基本的な4両を2編成つないだ安定?の編成です。8連化当初から引退に至るまで、新6000系ではもっとも多く見られました。一本だけ横浜方のモハユニットが旧6000のユニット試験車(6701-6144-6145-6526)という編成もありました。

4番目は冷房化進展期に一時的に見られた、クハは新6000、モハは旧6000という編成です。挟まっていた旧6000系はユニット試作車でない普通のモハ6100形でした。マイクロエースが製品化してましたねw

一番下は新6000系末期に見られた6M2Tの強力編成廃車の進行と検査の都合でたまたま現れた編成だと思いますが、貫通8連自体6000系としては珍しい編成となりました。

 

10両編成

6000-6600-6000-6600-6100-6500(旧)-6100-6100-6100-6500(旧)

6000-6600-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

6700-6300(奇)-6300(偶)-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)-6700-6300(奇)-6300(偶)-6500(新)

基本的に8両編成の横浜寄りにモハ6000-サハ6600の組み合わせを足した編成になっています。新6000系の方は編成をバラさないと2両追加ができないので、漏れなく旧6000系の柔軟なシステムに助けられたような形になってます。それにしても先頭車が多いですねww

一番下は旧6000系全車引退後に発生した8000系や9000系による置き換えの進展期(1999頃)の編成で、クハを廃車にして捻出されたモハユニットを横浜より4両に差し込み、6+4の10両を組んだ編成となりました。新6000系としては珍しい6M4Tの強力編成になっています。

 

上記に書いた他にも、色々な編成パターンが見られました。固定編成が基本となっている今の電車と違った柔軟な組成を前提とした6000系らしい部分とも言えそうです。

 


さて、旧6000系120両に新6000系70両を加えた190両の6000系は文字通り相鉄電車の主役として活躍しましたが、平成に入ると流石に老朽化も目立つ様になり、8000系及び9000系による置き換えが始まります。

大勢力だけに置き換えは11年間にもおよび、旧6000系だけでも5年間に及びました。旧6000系の方は1992年から廃車が始まり、ユニット試作車のとアルミ試作車を最後に1997年5月までに全車が運用を離脱しました。クハとサハの大容量MGは冷房化時に取り付けられて比較的若いことからか、9000系に転用されています。混結する新6000系が残っていたこともあってか特にお別れ運転などもない、中心車種としては寂しい最後になりましたが、トップナンバーの6001とアルミ試作車の6021がかしわ台の車庫で静態保存されることになりました。

旧6000系のユニットを挟んでいたクハを皮切りに引き続き新6000系も引退が始まりますが、新6000系の方は間に3000系の事故廃車が挟まったこともあってか数の割には意外と置き換えペースが遅く、2002年時点で約半数となる8両編成x4本の32両が活躍していました。

最終期には4本とも色の違う姿(リバイバル旧塗装、標準色、緑園都市号、アートギャラリー号)となり利用者を楽しませていましたが、2003年8月に運用削減の煽りも受けて一気に定期運用から離脱してしまいました。幸い、新6000系はひっそりと消えた旧6000系とは対照的に同年11月にお別れ運転が行われ、惜しまれつつ相鉄線から去っていきました。

高度成長期以降の相鉄を支えた中心車種に相応しい、華々しいフィナーレを迎えることができたと言えるでしょう。



いやー、書いていたら熱くなってしまい、実質2形式分ということもあって思った以上に長くなってしまいました。というわけで、とりあえず今回はここまでにしますw

次回は模型の方についてじっくりと書いていこうと思いますw