夜汽車の汽笛への憧情 -142ページ目

痛恨のキングスホビー休業

鉄道模型メーカー色々あるが、旧型客車を主にメインとするガレージメーカーでキングスホビーというメーカーがある。
ここでも何度か組み立て記事等を書いてきたが、このメーカーは実車についての造詣・考証が深く、ディテールもしっかりしており、金属キットでありながら腕次第では大手メーカーを凌ぐほどの出来栄えのものであった。
その分値段は高価ではあったが、値段に相応のモノであったというのはこのメーカーを知る人であればだれもがうなずくことができるのではないだろうか。

私が旧型客車の世界にのめりこんでいったきっかけに大きな役割を果たしたのは何をかくそう、このメーカーのホームページである。
読み物と遜色ない客車の解説文に加え、組み立て完成品の写真は、在りし日の客車列車たちの勇姿を想像させるに十分な内容で、複雑とも言える客車の形態に細かく触れているのも特徴であった。
さらにこのメーカーのキットを買うと付いてくる説明書にはさらに細かい解説(少数車両の場合は番号による機器配置やドア形態の違いまで)も書かれており、資料としても十分な価値を持つものであろう。

また、このメーカーでしかモデル化してない車種が多いのも特徴である。
特に二重屋根の車両となると、KATOがオハ31系とマイテ39を販売しているにすぎない。
(かつてはMODEMO(中村精密)製品もあったが、既に絶版状態で入手困難である。)
さらに、キット用の客車の内装部品や、食堂車用の大型ベンチレータ、KM型冷房装置に必要な発電機、TR-71型台車など、パーツメーカーとしても気の利いたパーツを販売していたメーカーだった。  

しかしながら旧型客車という今となってはマイナーなジャンルであることもあり、それに輪をかけて今は組み立てを行う人口が減っているご時勢に加え、長引く不況で財布の紐が硬くなったこともあるのだろう。
キングスホビーが休業となったという知らせが出たのはつい先日のことだった。

休止ということは、今市場に出ている物以外は当面は入手できなくなることを意味している。
しかもこの休業は将来復活するかどうかも非常に微妙といわざるを得ないだろう。

上にも書いたとおり、二重屋根客車キットをはじめ、このメーカーでしか発売していないパーツは多い。
その中には私の購入計画にある物も少なくない。
これらが入手困難になるとすると、大きく計画が狂ってしまうことになるだろう。

また、キットの内装を作るうえで代替手段を考えねばなるまい。勿論、工数は大きくアップしてしまうことになるだろう。

これからも同社製品を購入しようとしていた私にとっては、キングスホビーの休業は本当に痛恨である。


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マニ37つれづれ

マニ37という荷物車がある。

昭和42年から数年間にわたり遊休の客車を利用して誕生した荷物車で、パレット(キャスター付の荷物棚)積みに対応するため床をフラットにしたり、パレット固定用器具がついている客車である。
一般の荷物車と区別するため、乗客用でないにもかかわらず塗装が青15号に塗られており、その無骨な外観と青塗装の組み合わせが大きな特徴となっていた。

さて、この青い旧型荷物車が俄かにマイブームになりつつある。
様々な種車を利用して製造されており、その種車の特徴を一部受け継いでいて、同じマニ37でも大きく形態が異なっているのが知的探究心を刺激するのである。

ここで軽く種車別の形態を書いてみようと思う。
・スロ60改造
マニ37では一番多数派であり、模型化したメーカーも多いメジャーな形態である。
完全切妻車体であるが、旧デッキ側の妻面はスロ60の特徴をそのまま残したキノコ状となっている。


キノコ状の妻面のマニ37


サイドビューはこんな感じ


・スロ50改造
スロ60改造車と並んで多数派である。
こちらも完全切妻車体で、妻面は通常のスタイルである。
初期に改造されたグループは窓サッシが無塗装のアルミサッシとなっているのが特徴で、荷物車ながら銀の窓枠が目立つ。



スロ50改造車。妻面の形状は一般的

こちらはサイドビュー。スロ60改造車と微妙に窓位置が異なっている。

スロ60改造車(左)とスロ50改造車(右)。妻面形状の違いがよくわかる。

・スロ51改造
たった2両の少数派である。
スロ50改造車に似ているが、窓は塗装されたサッシであり、窓配置が微妙に異なっている。
敢えて言えば大きな特徴がないのが特徴だろうか。

・スロネ30改造
完全切妻車体で、やはりスロ50改造車と似ているが、窓配置が異なっている。
元は側廊下式の寝台車だったため、水タンクが車体中央ではなく改造前に通路側だった側にオフセットされており、それが大きな特徴になっている。

・スロフ53改造
完全切妻車体で、スロ50改造車に比べ大幅に窓配置が異なる。特に荷物室側のデッキに近いほうの2枚の窓が、種車の窓配置を生かした連窓になっているのが特徴。

・スハ32改造
・スハフ32改造
戦前型標準の丸屋根車体で、ウインドシル・ヘッダーと車体端・裾にリベットが付く。
他のマニ37と大きく形態が異なっており、戦前型車体と青15号の組み合わせが珍しい。
なお、スハ32改造車とスハフ32改造車でわずかに窓配置が異なっている。

これらは全国にバラバラに配置され活躍したが、配置の都合上列車によって形態が限定されるケースがあった。

一見フリーダムな様で模型で再現する際には厳密にやるとハマるのもマニ37の特徴だ。
例として、急行「越前」に連結されたマニ37は担当客車区の配置の都合上、一番メジャーなスロ60改造車が使用されず、スロ50改造車かスハ32改造車のみであった。
また、ブレーキ系統の改造を受け14系等に連結できるようにした200番台車はスロ50、スロ60、スロフ53改となっていて、スロ50改はアルミサッシ車である。

また、同じ種車の中でも改造担当工場により細かい差異があり、なかなか模型で追いかけようとすると悩ましい車種なのである。


大放置の果てにボチボチ再開・・・?

ネタはあるんですがなかなか書く時間がなかったりで放置してました。
まえは携帯から書いてたのですが、スマホだと長文書くのが面倒だったり。

ameba自体も放置してたのですが、とあるきっかけでピグをやるようになり、アクセスすることもでてきたのでついでに鉄ネタ中心に小ネタをボチボチ書いていこうかと思っております。

夜汽車の客車たち(その35-2)

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前回に引き続き、マロネフ38形10番台について書いてみる。

2.我が家のマロネフ38形10番台
我が家のマロネフ38形10番台はキングスホビー製のキットを組み立てた物である。
実はマロネフ38形10番台キットはキングスホビーから発売されたばかりの新製品で、旧仕様の製品はあったものの、リニューアルされずに永らく残っていたのが去年の11月にようやく新仕様で発売された。
新仕様は床板と妻板がプラスチックとなっているほか、区分室仕切りなどが充実している上安価となっている。
密かにリニューアルするのを待っていたところで発売されたので飛び付いたと言うわけだ。
ディテールは流石と言うべきもので、私のような未熟者が組んでも見栄えのするものになっている。
特に縦リベット表現が素晴らしい。
太い柱の部分はちゃんと二列になっている。


外装についてはほぼ素組だが、内装の一部を自作した。

導入目的は第一部で書いたとおり、マロネフ38となってから唯一の定期運用である急行「能登」用である。そのため、「能登」用として一番長い期間であった三等級制度が廃止となった昭和35年6月からの装いとし、ぶどう色2号にライトブルーの帯ながら、等級表示はデッキ横に大きな数字とし、一等車である事を示す1の文字を付けている。なお、昭和36年7月に塗装規定が改正されて、規定上は帯が淡緑帯となったが、実車は急行「能登」で使われている間は青帯のままだった様だ。
番号はマロネフ38 11とした。インレタはキングスホビーとグリーンマックスの組合せである。
所属表記は現代と同じくデッキ横の下部に付くものとなるが、インレタが未入手のためついていない。
追って入手次第取り付ける予定である。

ちなみに区分室は洗面台は撤去されたものの旧一等寝台でありながら、優等寝台としては安価な一等C寝台として利用できるお得な車両だったそうだ。
既出ではあるが、急行「能登」時代の特徴として最後部となる貫通路に蓋が付いていた事が挙げられるだろう。
他に例のない特殊な形で、マロネフ38形10番台の個性的な姿をさらに際立たせている。車体に直接取り付けられたものではなく貫通幌に着いており、脱着可能な簡易な物ながら、覗き窓が付いていたのも面白い。
なお、戦前製客車で貫通路に扉や蓋が取り付けられた例は郵便車や荷物車を除くと少なく、定期列車では急行「能登」のマロネフ38以外では特別急行「あさかぜ」用のマロネフ29のみである。他に駐留軍貸し渡し用の特殊車両に取り付けられた例がある。この中でも幌蓋はマロネフ38のみとなっていて、他は観音開き式の貫通扉が車体に直接取り付けられている。

実車の使用範囲が狭かったので我が家での用途、出番も限られてはくるが、屈指の個性派として活躍することになるだろう。


3.マロネフ38つれづれ
マロネフ38は後にマロネフ58となった0番台も含め、面白い存在である。
マイロネフ37とマイネロフ37が結果的に同じ形式になったというのも興味深いが、定期列車として同じ運用を持ったことがないというのもなにやら因縁めいてて面白い。
車両の生い立ちもなかなか対照的である。

それにしても、二等室の窓配置を残したまま寝台に改造するというのは面白い。というか、空前絶後ではないだろうか。
北斗星用客車の中にも座席車改造の寝台車は存在するが、車体は作り替えられており、座席車の面影は全くない。

区分室と解放寝台の合造車と言うのも今となっては面白い組合せだが、こちらは木造客車から比較的よくみられたスタイルで、鋼製客車では以下のものがある。
マイロネフ37280(→マイロネフ37→マロネフ38→マロネフ58)
マロネ37480(→マロネ38)
マイロネフ37290(→マイロネフ38→スイロネ38→マロネ58・マロネフ59・14号御料車)
マイネ40(→マロネ40)
ナロネ22
これに後天的に改造されたマロネフ38-10が加わった形となる。

どれも個性的な窓配置で見た目に面白い客車だが、軽量客車のナロネ22と皇族用のマイロネフ37290は別格として、窓配置がそれぞれバラバラなのも面白いが、区分室部分の通路側にどれも三連窓があるのが面白い。

さすがに現代の北斗星用客車やカシオペア、トワイライトエクスプレスに比べたらおとなしいものだが、いわゆる旧形客車の中では食堂車と並んで窓配置を楽しめる部類だろう。

それにしても、マロネフ38 11は見飽きることのない客車だ。
ダブルルーフに縦リベットボディー、三軸ボギー台車という、威厳たっぷりの組合せに加え、どこかユーモラスな貫通幌蓋、窓から覗く区分室仕切り、旧二等座席部分の等間隔に並ぶ小窓など、見ていて楽しいのだ。
そして、近代史にリンクした激動の歴史があり、それを追う楽しさがある。
こんな客車がいるから旧形客車は面白い。

写真1枚目:急行「能登」の最後尾を勤めるマロネフ38。
二重屋根が歴史を感じさせる。
奥のスロ53やナハネ11とは歳の差20年以上。車両構造の世代でいくと2~3世代の差がある。
こんな組合せも旧客急行の面白さだ。
流山のぴょん太鉄道にて撮影。

写真2枚目:窓からみえる区分室仕切り。ニス塗りの廊下はヨーロッパの客車の様であり、一種のあこがれである。
こんな客車に乗ってみたかった。

写真3枚目:この客車の「顔」。
貫通幌蓋はこの客車独自のもの。
他に電車で非貫通の運転台との連結面で類似のものが見られたが、編成端で見られるのは「能登」使用時のマロネフ38形10番台のみだった。
東海道経由時代の「能登」のキャラクターにもなっている。

夜汽車の客車たち(その35-1)

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今回は波乱の運命をたどった珍車マロネフ38形10番台について書いてみる。
不可分の存在であるマヤ38や、マイフ29。また、類似の設備であるマロネフ58についても軽くふれることにする。

1.マロネフ38形10番台の概要
マロネフ38形は区分室と開放式の寝台を持つ二等C寝台緩急車である。
この形式自体が生まれたのは昭和29年の事であるが、車両自体は昭和5年生まれの戦前派である。
車体構造は当時標準であった車端部に絞りのあるもので、屋根は明かり採り窓の付いた二重屋根構造である。
溶接技術が未発達であるためリベットが多用されており、柱部分と車体裾、窓上下の補強帯にリベットがズラリと並び、鎧武者を思わせる厳つい外観となっている。
窓の天地サイズは735mm。幅は700mmの小窓である。

台車は当時の優等車標準のペンシルバニア型軸バネ式三軸ボギー台車のTR73を履く。

以上から、趣味的分類上はスハ32系にカテゴリされている。

さて、室内レイアウトは車体前後にデッキがあり、前からトイレ・洗面所。ツーリスト式の開放寝台が左右に3区画ずつ。給仕室と喫煙所、二人用区分室寝台が4室、洗面所、トイレ、車掌室となっている。
このような設備のため窓配置はバラバラであるのだが、特筆すべきは開放寝台部分の窓配置だ。
ツーリスト式の寝台車に見られるような二枚組の窓が並んでいるのではなく、まるで転換クロスシートの二等座席車の様に小窓が一枚ずつ等間隔に六つ並んでいるのだ。
ここで寝台車としては変わった窓配置の謎を解き明かすべく、この車両の歴史を追って行くことにしよう。

さて、この客車が誕生した昭和5年。
北海道の旭川には帝国陸軍の鎮守府が置かれていた。
鎮守府の司令官は親任官待遇のいわゆるVIPであるが、当時は航空機は一般的ではなく、所謂貴賓層は急行列車で移動していたのである。
そのため、セキュリティを考慮して主要な急行列車には区分室式の一等寝台車が連結されていた。
一方で、北海道の函館から旭川の間には大都市がほとんどないため、高価な一等寝台を利用する客が旭川の鎮守府の将校位しかおらず、1両でも供給過剰となることから、車両の半分だけ一等寝台とする客車が使用されたが、当時とある事故で在来の木造客車の安全性が疑問視され、優等車から鋼製化を進めており、函館と旭川を結ぶ急行列車にも鋼製の一等寝台車が製造されることになった。
そこで誕生したのが後にマロネフ38形10番台となるマイネロ37260である。
ここで注目すべきはマイロネではなく、マイネロ、つまり、一等寝台と二等座席の合造車という、珍しい組み合わせの設備を持つことであろう。等級の違う寝台同士や、逆に等級の同じ寝台と座席の組み合わせはそれほど珍しいものではなかったが、この組み合わせは当時としても異例であり、後にも同様の組み合わせは発生していない。
このため大変珍しい窓配置となったのである。
つまり、マロネフ38形10番台の開放寝台部分には元々二等座席が配置されていたのだ。
二等座席部分は当時スロ32と同様の転換クロスシートであった。

さて、誕生後のマイネロ37260は総勢4両が製造され、目的どおり函館~旭川の急行列車に使用されたが、昭和9年に利用の低迷していた一等寝台を、原則的に東海道・山陽本線以外は不連結とすることになった。そこで旭川鎮守府の高官向けに二等ながら区分室を設けて特別室としたマロネ37480(→マロネ38)が登場し、これに置き換えられてマイネロ37260は運用を離脱したのだった。

運用を離れたマイネロ37260は4両中3両が本州へ転属し、緩急設備を取り付けてマイネロフ37260となる。
たった4両の仲間は離ればなれとなり、団体・臨時用として車庫の片隅で休んでいることが多かった。

昭和10年に特別急行「不定期燕」が運転開始となった。「不定期燕」は昼間の列車であるが、特別急行には要人を運ぶため区分室を付ける事になっていた。
しかし、当時区分室付きの一等展望車が足りず、その代打としてマイネロフ37260が起用されることになった。
これに際して散らばっていたマイネロフ37260は名門品川客車区に集められ、天下の東海道本線の特別急行列車の殿を務めた訳である。
「不定期燕」は昭和15年に定期に格上げされ「鴎」となり、マイネロフ37260も定期特別急行の運用をこなすという栄誉を与えられたが、やがて区分室付きの一等展望車スイテ37050が登場するとお役御免となった。
そして再び車庫の片隅でのんびり過ごす毎日へ逆戻りとなったのである。

昭和16年の称号改正でマイネロ及びマイネロフ37260はマイネロ及びマイネロフ37となった。
余談だが国際航路連絡用として製造された一二等寝台車にマイロネフ37(元は37280)という形式があり、この称号改正によって混同しやすくなった。

さて、第二次対戦が始まるもマイネロフ37260には大きな動きはなかったが、終戦と共にたった4両の小世帯には波乱の運命が訪れる事となった。
マイネロフ、マイネロ37は進駐軍に接収され、車両の半分が区分室寝台という特徴を生かして、主に高級将校の巡察用に使用されることとなる。
転換クロスシートの二等室部分はラウンジ等に改造された。
唯一緩急設備のなかったマイネロ37はデッキを片方潰して密閉式の展望室とされ、昭和25年の返還時にも特別職用車マヤ57となった。
国鉄幹部の巡察用や外国人団体用として利用されたが、貧しい国内事情に配慮してか、試験車両マヤ37となった。後に称号改正でマヤ38 51となり、特別職用車の面影を残しつつ昭和45年に廃車となった。
一方で、他の3両はサンフランシスコ条約締結により優等車両の返還が行われるなか引き続き駐留軍貸渡し車両として使用され、そのまま昭和28年の称号改正を迎えてマイネロフ29となったが、昭和29年に2両、昭和30年に1両がようやく返還された。
このうちマイネロフ29 3は昭和30年7月の一等寝台廃止に伴い、二等室がラウンジに改造されたままであるこから一等車扱いとなってマイフ29になった。昭和30年11月になってようやく返還されるが、設備を復旧することも改造することもなくそのまま外国団体貸し切り用となるがほとんど使われる事もなく、昭和31年には台枠や機器の一部を新型の食堂車オシ17に提供して車生を閉じることとなった。
さて、残りは今回の主役となる2両である。
昭和29年に駐留軍より返還されるが、ラウンジとなっていた元二等室はツーリスト式の寝台を設けて二等寝室とし、既に利用の低迷していた一等寝台は室内の洗面台を撤去して折り畳み式テーブルを設置、二等寝室特別室として格下げ改造された。また、元給仕室を車掌室とし、代わりに車体中央に給仕室を新設。これに伴い唯一の四人用区分室は半分の二人用に変更され、更に喫煙所も設置した。
この結果、先に元マイロネフ37を格下げしたマロネフ38と類似の設備となったため、マロネフ38形に編入されてマロネフ38形10番台となった。
なお、マロネフ38形の基本番台である元マイロネフ37は二人用区分室を2つ、4人用区分室を一つもち、車両半分は元からツーリスト式の二等寝室で、戦前のマイロネフ37280時代は国際航路連絡列車として東京~敦賀港で使用された。
形式名も設備も似ているが、生い立ちは全くの別物で、同じマロネフ38になってからも同一運用とはならなかった。
また、こちらは格下げ時に洗面台を撤去せずそのままの設備となっていて、一等寝台廃止時には旧一等寝台扱いの二等A寝室とされ、形式もマロネフ58に変更された。

さて、格下げ改造を行ったためマロネフ38のまま残った10番台だが、設備が特殊であるためか団体臨時用となり、再び車庫の片隅で居眠りをする日々を送る事になる。
昭和31年にはマロネフ38 11は品川に、38 12は宮原に配置され、まさしく一族離散の状態となった。
なお、この期間に国際使節団の輸送列車に起用されている記録があり、さすがは元一等寝台というところだろうか。
さて、昭和32年から昭和34年にかけて旧一等寝台車が相次いで第一線を離脱し、団体臨時用になって隠居していくなか、昭和34年9月改正で突如としてマロネフ38にスポットが当たる事になる。
経緯は不明だが、東京から東海道線を通り、米原経由で金沢に向かう新設の急行「能登」に起用される事になったのである。
このため宮原にいたマロネフ38 12は品川に戻り、予備なしのフル稼働で定期運用に就くことになった。
特別急行「鴎」以来18年ぶり、マロネフ38となって以来最初にして最後の定期運用である。
なお、急行「能登」は「伊勢」「那智」と名古屋まで連結する珍しい三層建て列車で、編成の三ヵ所に優等車が散らばり、珍車マロネロ38も連結されるなどユニークな編成だった。また、マロネフ38が検査等で運用を離脱した場合は予備が無いことから全室ツーリスト式寝台のマロネフ29が代走したようだ。
なお、昭和35年6月に三等級制度が廃止となり、旧一等を廃止して等級を繰り上げたため、形式、設備そのままに名目上は一等寝台車となった。

さて、奇跡的な定期列車復帰を果たしたマロネフ38だが、既に軽量客車の10系が登場した後となっては二世代以上前の車体構造や設備ではさすがに古さは否めず、昭和36年10月改正でいよいよ後身に道を譲る事になった。後釜は走るホテルで名高い20系客車並みの設備を誇るオロネ10である。しかしながら実際にはオロネ10の製造が間に合わず、置き換わったのは昭和37年1月23日の事であった。

その後は再び団体臨時用として隠居生活となるが、他の旧一等寝台車が相次いで鬼籍入りするも生き延び続け、戦後うまれのマロネ40の半分以上が廃車になった昭和42年に2両とも廃車となり、波乱に満ちた歴史と共に戦前製の旧一等寝台車として最後の現役生活に終止符を打ったのだった。

予備の期間が長かったものの、北海道用として生まれながら天下の東海道で長く使用され、その歴史は栄華のあるものだったと言えるのではないだろうか。

続きます。

写真1枚目:開放寝室側のマロネフ38 11。
均等に並ぶ小窓は元二等室の名残であり、この車両の大きな特徴となっている。
二枚おきに見える室内の仕切りが寝台車である事を物語っている。

写真2枚目:区分室側。疎らに並ぶ小窓は区分室寝台の証し。一等寝台として生まれながら格下げ改造された珍しい存在である。
貫通路の蓋は急行「能登」時代のみに取り付けられていたものだが、戦後唯一の定期運用での姿を特徴付けるものとなっている。

写真3枚目:区分室の通路側の窓配置も旧形寝台車を楽しむポイントの一つ。
三連窓と二連窓が並ぶ姿はマロネ38やマロネ40にも通じる部分がある。
ドア横には一等車である事を示す大きな1の文字。昭和35年以降はC寝台ながら一等寝台として復帰という形になった。

夜汽車の客車たち(その34-3)

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今回は前回と同じスシ37800一族である、マシ49について書いてみる。なお、不可分の関係にあるスシ48形10番台とスシ28形100番台、マシ29形100番台についても軽く述べる事にする。

1.マシ49の概要
マシ49は昭和8年にスシ37800として誕生した食堂車である。
車体構造や登場後から戦後まもなくまでの歴史はスシ37800の稿を参照されたい。

さて、マシ49はスシ48-10の冷房改造車であるので、スシ37800の記事と内容は重複するが、ここで少しスシ48について書くとしよう。
スシ48が誕生したのはちょうど称号改正の時で、マシ29やスシ28と区別された理由は、厨房付き三等車からの復元改造時に大幅なリニューアルが行われ、仕様に差異が出た事による。
具体的には主に、
・内装の変更(当時最新のマシ35に準じたイメージのものにする)
・照明の蛍光灯化(食堂車としては初)
・冷房準備工事の施工
・喫煙室窓の変更(600mm幅2枚を700mm幅1枚に)

である。
このため、スシ48形には非冷房にもかかわらず屋根に空調用点検蓋が付いており、窓配置も変わったためスシ28・マシ29とは外観上も異なっている。
この時に屋根裏水槽用の給水口も目立たないものに変更された様で、少なくとも写真でそれらしきものを確認できない。
戦後型のマシ35も屋根裏水槽の給水口が目立たないため、同様のものに変更されたのかもしれない。

ちなみに、同じスシ48形のうち0番台となった元スシ37740のグループでは二重屋根の一重屋根・判切妻(オハ35系後期タイプ同様の車端部が車幅方向のみ絞りがある)化、台車を釣合い梁式のTR74から軸バネ式のTR73へ交換なども行われ、気合いの入った改造内容になっている。

なお、スシ48形10番台はスハシ37改造を含めて総勢6両になったが、この内の5両がリベット付きの昭和8年製である。

さて、スシ48は東京~鹿児島を結ぶ急行「きりしま」のほか、長崎行きの「雲仙」にも起用されたが、最新の内装を持つため特急「かもめ」に起用することになり、登場翌年の昭和29年にスシ48 13~15の3両が冷房改造されることになった。
早速冷房準備工事が生きた訳であるが、この3両以外は結局冷房改造されることはなかった。
さて、冷房装置を取付けて重くなったスシ48は重量ランクが変わったため新形式となり、マシ49となった。
なお、マシ49の冷房装置にはマシ29やスシ37800の稿で書いたとおり、マシ29 102~104のものが使われており、冷房装置を失ったマシ29 102~104はスシ28 103~105に変更されている。

なお、マシ49の冷房化時はスシ48と外観上の変化がなく、同じ元スシ37800シリーズの冷房車でながら冷房化後にベンチレータが撤去されたマシ29形100番台とは外観がだいぶ異なる様になった。

さて、マシ49はたった3両の少数派ということもあってか、その足取りはかなり明確なものとなっている。
昭和29年から竹下に配属され、予定どおり特急「かもめ」に使用される。
戦後形スハ43系グループのスハ44やスロ54に挟まれ、展望車が連結されなかった事もあり、唯一の戦前スタイルで編成中のアクセントになっていたが、昭和32年にスハ44を臨時特急「さくら」に取られてからは最新形の10系が隣に連結され、急行列車張りの凸凹編成となった。
昭和34年7月に夜行特急「平和」が20系化とともに「さくら」となり、余ったオシ17 5,6が「かもめ」に配備されると、長崎に異動して急行「雲仙」に使用されることになったが、2両では予備が不足するため異動したのはマシ49 1,2のみでマシ49 3だけは「かもめ」用として竹下に残った。
マシ49 3は一応予備の存在だったが、オシ17の新型冷房装置に不慣れな竹下客車区では当初上手く冷房装置を運用させることができず、早岐所属のマシ29の支援を受けてようやく夏季をしのいだとの資料があり、マシ49 3の出番はかなり多かった様だ。
しかし、昭和35年6月にはオシ17 15が追加配備され、マシ49 3は仲間のいる長崎に移って急行「雲仙」用になった。
新型オシ17の台頭によりマシ29、スシ28、スシ48が東海道から消える中、昭和36年3月には元スシ37800シリーズとしては唯一定期運用で東京~九州を結ぶ存在になった。

しかし昭和36年10月改正で「雲仙」は「西海」との併結列車となり、「雲仙」からは食堂車が外されたため、今度は名古屋へ移って名古屋~熊本を結ぶ急行「阿蘇」に連結される事になった。

マシ29 101を仲間に加えて急行「阿蘇」を3年間担当した後、昭和39年10月改正で鹿児島行きの急行「さつま」にシフトした。
「阿蘇」は山陽本線区画で夜行の列車だったが、「さつま」は山陽本線が昼行で、夜行区間に入る門司で切り離したため効率の良い運用となった。

しかし、マシ49にとってこれが最後の活躍となる。

昭和40年10月改正で急行「さつま」は分割され、昼行区間の名古屋~博多は急行「はやとも」となり同時に電車化。一方で門司~鹿児島の夜行区間は急行「はやと」となり、食堂車のない編成となった。
これでマシ49は運用を失い、マシ49としては約10年だが元々昭和8年生まれで老朽化していたこともあり、そのまま定期列車に使用されることなく昭和41年に3両全車が廃車。
冷房付きの食堂車としては初の形式消滅となった。

なお、皮肉にも冷房化しなかったスシ48形10番台は電気暖房を取付けて東北方面で活躍し、冷房化したマシ49よりも2年程長生きしている。


2.我が家のマシ49
組み立て記事にも書いたとおり、キングスホビー製のキットを組んだものである。
マシ29同様、室内はテーブルと仕切りを除いて自作した。室内灯は付ける予定だが、未実装である。

マシ49の導入目的は昭和34年7月からの「雲仙」用である。
このため、塗装・表記は昭和34年6月以降の様式になっている。
所属は門サキとし、ナンバーはトップのマシ49 1にした。このトップナンバー車は床下空調装置に整風フィンが付いているのが特徴だ。

我が家では予定の「雲仙」の他、特急「かもめ」や、当面の間外観がほぼ同一なスシ48の代用としても使用する予定だ。


3.マシ49つれづれ
マシ49はたった3両の少数派であるが、冷房の有無のみが違うスシ48-10が3両いるだけでなく、スシ37800一族であるため、どうにも少数派らしからぬ少数派である。
ベンチレータと空調蓋が仲良く同居するあたりはやや特異と言っても良いかもしれないが。

面白いのは、同じ元スシ37800の冷改車であるマシ29形100番台と、外観も運用も対照的だった事だろう。
マシ29が幅広く、しかも短期間での動きも激しかったのに対し、マシ49は一つの列車に長く使用されたため、活躍範囲が限られていた事だろう。
上で書いたとおり、戦後は「かもめ」「雲仙」「阿蘇」「さつま」の4列車に過ぎない。
外観についても同様である。
屋根については上述のとおりだが、喫煙室の窓が変更され、初期車ばかりのためリベットの付いたボディー。それでいて蛍光灯照明で、冷房まで付いているのだから、マシ29とはまさに「似て非なる車両」になったと言って良い。

ところで、マシ49は終始東海道・山陽本線系統で活躍したが、意外にも名古屋以東で活躍した期間は短い。
オシ17に追われて「かもめ」用の座を降りた昭和34年7月から昭和36年9月までの約2年間に過ぎない。
しかし、その間にマシ29が定期運用から一旦追われ、その間中は東京へ顔を見せる唯一の元スシ37800形だったのだから、なんとも不思議な巡り合わせである。
皮肉にも昭和36年10月にマシ49が東京から撤退するのと同時に東京には「瀬戸」用にマシ29形100番台の定期運用が復活しているのだから面白い。
また、マシ29の一部が「近代化改造」されて蛍光灯化したのと入れ替わる様なタイミングで廃車になっているのも、運命の妙を感じてしまう。

もっとも、マシ29とは表裏の様な存在ながら3両だけの存在であるので「雲仙」「阿蘇」時代は予備が足りず、予備にマシ29形100番台の支援を受けていたのも事実である。
そこはやはり兄弟形式ということであろう。

さて、マシ49はたった3両の存在だった事もあってか、知名度は同じく特急に使われたマシ35やオシ17と比べて断然知名度が低い。
そもそも客車歴の浅い自分などは当初49などという客車の形式は現在も動態保存車として生き残る展望車のマイテ49位しか知らなかった。
そのマシ49がマイクロエースの銀河鉄道999セットに入っていた事自体驚きだったが、案の定スシ28ともマシ49とも付かぬ不思議な突っ込む所満載の車両になっていた。無論、スシ48であってもおかしな形である。
リベット付きボディーは合っているが、喫煙室窓がこともあろうに700mmと500mmのオフセットした2枚窓になっている。
屋根はベンチレータがあるのは正解だが空調蓋はない。一見スシ28の様だがしっかり空調蓋の存在するあたりはのっぺらぼうになっている。
厨房には大形どころか巨大なベンチレータ一つと、煙突が何故か通称「半ガラ」と呼ばれる、ダブルルーフ車でお馴染みのガーランドベンチレータを半分にした形のベンチレータになっている。

メーカーとしての考証の甘さは否定できないが、一方で資料が少なくて考証が難しいのも事実だ。
その中でかつて存在しなかったスシ37一族のプラ完成品を出した事自体評価すべきなのかもしれない。
それだけにこの考証の甘さが残念でならないのだ。
もっとも、マシ49などというキワドイ形式は大して売れないだろう事は想像に難くない。
セット限定の少数生産となれば、考証にかけるだけのリソースは裂けないとの判断かもしれない。

そして、マシ49は今後も安価な完成品は発売されず、「かもめ」を再現する上での難関車両として君臨することだろう。


さて、マシ49使用列車のうち、華やかさでは「かもめ」に負けるが、面白さでいえばやはり「雲仙」だろう。
「かもめ」は特急とはいえ展望車を連結しなかったため、機関車が装飾付きだったり、ヘッド・テールマークが付く以外は、基本的には特別二等と三等車で食堂車を挟むシンプルな編成だったが、「雲仙」はマシ49が連結される様になった昭和34年7月から昭和34年9月の僅かな間ではあるがマロネ40を連結し、二等ABC寝台と2種類の二等座席車、新鋭の三等寝台にスハ43系の三等車と、黄金期の九州急行らしい重厚な組成で、この時代の急行に定番の荷物車も連結されていた。
塗装規定改正直後なので、ぶどう色1号の旧塗装とぶどう色2号の車両が入り交じり、当時の客車ファンにとってはかなり楽しい編成だったのではないだろうか。
マシ49が旧一等寝台車と一緒に走るのはこの2ヶ月のみで、貴重な組み合わせだったと言えるのではないだろうか。

そんな束の間の豪華編成を再現するのは、とても楽しい夢である。

写真1枚目:スシ48に「かもめ」用として冷房装置を付けて登場したマシ49。
手前側は喫煙室で、700mm幅の1枚窓になっているのがスシ48・マシ49の特徴だ。
元はスシ37800形初期車であるため、リベットが目立つ。ゴツゴツしたリベットと様々な間隔で並ぶ狭窓がいかにもスハ32系らしい古典的なスタイルだ。


写真2枚目:厨房部分の通路側。不等間隔の窓と中の仕切りが食堂車を特徴づけている。

写真3枚目:マシ29と並ぶマシ49(手前)。マシ49は三等車からスシ48として復元される際に調度品が一新され、明るい物になっている。という事だが、詳細な色が不明なのでフィーリングで椅子をクリーム色にしてみた。
また、ベンチレータと大きな空調点検蓋が特徴的だ。

夜汽車の客車たち(その34-2)

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今回は戦前製食堂車の代表選手でスシ37一族である、マシ29形100番台について書いてみる。
なお、不可分な関係であるスシ28形100番台や、スシ48・マシ49、同じスシ37一族であるマシ29形0番台についても一部記述する。

1.マシ29形100番台の概要
マシ29形100番台は、スシ37740形の増備車として、昭和8年から10年にかけてスシ37800形として製造された食堂車である。
詳しい解説はスシ37800の記事を読んでいただくとして、ここでは主にマシ29時代について書く事にする。

称号改正でマシ29となった昭和28年現在、マシ29形100番台はその大部分が品川客車区に配備され、駐留軍からの返還後は東京~九州を結ぶいわゆる九州急行と、東京~青森を結ぶ特殊列車(後の「十和田」)に使用された。他に昭和28年新設の特急「かもめ」にも使用された。
また、特急「つばめ」「はと」にピンチヒッターとして使用されることもあった様だ。

昭和29年には特急「かもめ」にスシ48を冷房改造して充てる事になったが、自ら冷房装置を用意する程の体力は当時の国鉄になかったことから、マシ29 102~104の冷房装置を供出している。
これにより上記3両はスシ28に編入され、スシ28 103~105となった。
なお、冷房装置を得たスシ48 13~15はマシ49 1~3となった。
またこの結果、昭和8年製のリベット付きマシ29はマシ29 101のみとなっている。
なお、これをもってマシ29は「かもめ」を外れ、定期特急運用は消滅した。
また、同じ昭和29年に元軍用列車だった特殊列車が普通急行列車となり、当時残っていた3本のうち東京~佐世保間の「西海」と東京~青森間の「十和田」に引続き使用される。
この「十和田」は0番台と共にマシ29にとって唯一の東北方面の運用だったが、昭和31年11月の改正で「十和田」から全室食堂車が外されたためマシ29は撤退。同時に東京以北での運用はこれを以てなくなった。

以降は主に九州急行の「さつま」「筑紫」「雲仙」「西海」「阿蘇」と東海道の昼行急行「なにわ」に使用された。
特筆すべきは、昭和32年10月改正で臨時特急「さくら」に宮原のスハ44を使用することになり、マシ35の予備車としてマシ29 101と107が宮原へ移り淡い緑色の「青大将」塗装となった事だろう。
この青大将色のマシ29は東京~大阪の昼行急行「なにわ」の定期運用も持っており、茶色い客車に挟まれて文字通り異彩を放っていた。
なお、この青大将マシ29は電車特急「こだま」の登場で「さくら」が廃止されたため、僅か一年余りで消滅している。

なお、昭和33年中に室内の配置が異なるマシ29 201はオリジナルの配置に戻され、100番台車との差異はなくなっている。


さて、昭和31年にデビューして特急列車を中心に軽量車体のオシ17が配備されてきたが、特急列車の電車化や20系化、さらにオシ17自体の増備に伴い、昭和36年3月にマシ29は二重屋根の0番台を含めて一気に所定運用を失ってしまう。

しかし、マシ29は冷房付きかつ、戦前製ならではの豪華な意匠が買われたのか、昭和36年10月の改正で東京~宇野を結ぶ四国連絡急行「瀬戸」と、京都~博多を結ぶ急行「玄海」で定期運用復活を果たす。
また、マシ29 101は予備ながらも同じ元スシ37800であるマシ49と組んで「阿蘇」のローテーションに入っていた様だ。

一方で運用のなくなった105、106、108は昭和38年から106、108、105の順で廃車となり、106はマシ29形100番台としては廃車第一号となった。

昭和38年の改正で「瀬戸」はオシ17に置換わり、いよいよ定期運用は「玄海」のみとなった。
なお、「阿蘇」については昭和39年10月改正で「さつま」(名古屋~鹿児島)の昼行区間(名古屋~博多)にマシ49共々担当が変わったが、僅か一年後の昭和40年に電車化されて撤退している。

さて、残る定期運用の「玄海」は0番台を含む4両で運用されたが、100番台を対象に室内灯の蛍光灯化が実施され、さらに110と201は規定外ながら青15号に塗装された。
当時優等列車用車両を対象に青15号化が進んでおり、大阪鉄道管理局が青い客車の真ん中に茶色の客車が混じるのを嫌ったからだという説があるが、真相は不明である。
折角「近代化改造」されたマシ29形100番台の3両だったが、いよいよ終わりの時を迎える事になる。

その発端となったのは、昭和42年に同じ戦前型で「安芸」に使用されて頑張っていたマシ38が石炭レンジの火の不始末により車両火災となり、生の火を使う石炭レンジと、可燃性の木材を内装に持つ食堂車の安全性が問題となったのである。
国鉄内部でレンジの電化改装等が計画された様だが、理由は不明だが結局実施されなかった。おそらく特急列車増発と急行列車縮小の方針や、戦前製食堂車自体の老朽化もあり改修計画は消滅したのだろう。昭和43年10月にマシ29形100番台を含む戦前製の食堂車は運用停止となった。

「近代化改造」されたマシ29形100番台は、改造後僅か3年で全車廃車となり、35年の歴史に終止符を打ったのだった。

なお、交通科学館に保存されたマシ29 107だったが、後年ブルートレイン客車の食堂車ナシ20が展示されることになり入れ替わりで解体され、残念ながら現存していない。

2.我が家のマシ29
組み立て記事に書いたとおり、我が家のマシ29形100番台はキングスホビー製のキットを組み立てたものである。
素人組み立てならではの粗さはあるが、キット自体はプラ製に負けないディテールを誇る。
室内は仕切りとテーブル以外は自作である。今回は厨房部分を作り込んでいないが、これは室内灯点灯化時に合わせて作ろうかと考えている。

導入目的は九州急行の黄金期である、昭和30~33年頃の「筑紫」「さつま」「雲仙(S31~32)」「西海(S30・S32~)」と昭和31年11月までの「十和田」に使用するためである。このため、表記類は昭和34年頃までのものとし、所属は東シナ、番号は105番とした。

使用予定は上記のとおりだが、当面は昭和34年以降の列車やマシ29形0番台、スシ28の代用としても使う予定である。


3.マシ29形100番台つれづれ
昭和30年代前半の夜行急行を語るのに欠かせないのが、このマシ29形100番台を含むスシ37一族である。
戦前最後のマシ38や戦後生まれのマシ35が少数派だったこともあり、新型のオシ17が台頭するまでは食堂車の主力であった。
そんな訳で0番台を含めたマシ29は前から欲しかったのだが、ようやく念願叶ったと言ったところである。

上にも書いたとおりその運用範囲は広く、コレ1両で色々な列車を再現できる。
裏を返せば、マロネ29と同様、昭和30年代前半の急行列車を再現するのに壁となる1両だ。
一応プラの完成品自体は存在し、マイクロエース製の臨時特急「さくら」セットに入っているが、結局セットを買う必要があり簡単に入手できる物ではない。
他はコンバージョンキットを組むか、私の様に高価なキングスホビーのキットを組むしかない。
キングスホビーには完成品もあるが、値段もキングスだ(笑)

ちなみに我が家には昭和34年6月以前の表記の食堂車は既にいるのだが、マシ35とオシ17で、いずれも当時特急用であり、マシ38は使用する列車の兼合いで昭和34年以降の表記としたため、実はこの時代の純正な急行用食堂車は我が家初となる。

さて、マシ29形100番台の魅力と言えばやはりそのスタイルや仕様はもちろん、複雑な歴史もあるだろう。
先輩格の元スシ37700やスシ37740を含むスシ37一族は旧型客車を知る上で、その複雑な車歴は寝台車と並んで難関となっている。
元スシ37800だけを見ても元は一つの形式だったのが6つもの形式番台区分になっただけでなく、他の形式と同一形式になってるのだから、知的探求心を満たすのに十分な題材と言えるだろう。
しかも、荷物車や郵便車、戦災復旧車程混沌ではなく、落ち着いて追って行けば系統だてて紐解く事ができる。
さて、マシ29は一見複雑な様で、実に整ったスタイルをしている。
食堂部分は当時の優等車の標準とも言える、700mm幅の2枚組の窓が整然と並ぶ。
このあたりは大形クロスシートを持つ二等車スロ33やツーリスト式の二等寝台車マロネ29ともイメージが似ている。

スシ28 151やマシ38ではこの2枚組の窓が1枚の広窓となっていて洗練されたイメージだが、マシ29では狭い窓の2枚組みというのがいかにも古風でスハ32系らしく、戦前形らしい魅力がある。

それに加えてやはり一等車と同じ3軸ボギー台車だろう。
戦前の優等車両の証であり、独特の威厳を感じる。


ところで、マシ29形100番台はスシ37800時代まで含めると食堂車としては長寿である。
一番の長寿は先輩格のスシ37740→マシ29形0番台に譲るが、戦後生まれの食堂車は総じて短命だったからである。
(ただし、例外として現在「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」で活躍するスシ24形は長寿で、電車時代を含めるとおそらく歴代一位となる。)
その背景として、戦後まもなくは車両が足りなかった事と、客車の特急がブルートレインに移行し、オシ17の増備が戦前形を全て置換える程には製造されなかったことである。
新幹線開通前夜までは夜行急行列車が長距離移動の主役であり、オシ17で置換え切れない程の列車があり、加えて速度は遅く距離が長いので、1運用あたりの拘束時間が長く、予備含めて1列車に4~5両必要なことが多かったのだ。また、非冷房のスシ28が先に置換えられたこともあるだろう。
そんな事情もあり昭和36年3月には一旦所定運用がなくなりつつも、結局昭和43年10月まで生き延びた訳だ。

マシ38の火災の件がなければもっと長生きしていたかもしれないが、根底には急行列車の縮小と特急格上げの方針があったわけで、生き延びたのが時代の都合なら消滅したのも時代の都合である。

そう言う意味でも、マシ29は時代に翻弄され続けた食堂車と言って良いのかもしれない。

次回は兄弟形式となるマシ49を紹介する予定です。

写真1枚目:いかにも戦前派らしい硬派なスタイルのマシ29形100番台。
クラシックな窓まわりと対照的なスッキリした屋根が印象的だ。

写真2枚目:クリーム色の仕切りが目立つ厨房部分の廊下側。不等間隔に並ぶ狭窓がいかにも食堂車らしい風貌だ。

写真3枚目:2段窓の厨房部分。火力の十分な石炭レンジで質の高いメニューが提供されたという。この厨房で作られた料理を食べてみたかった。

夜汽車の客車たち(その34-1)

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組み立て記事で書いたとおり、マシ29形100番台とマシ49が仲間入りすることになった。
そこで、今回は戦前製食堂車の代表選手でスシ37一族で、マシ29形100番台やマシ49の母体となったスシ37800グループについて、主に昭和28年の称号改正までの概要を書いてみる事にする。

なお、同じスシ37一族であるスシ37700形、スシ37740形についても一部記述する。

1.スシ37800形の概要と歴史
スシ37800形は、スシ37740形の増備車として、昭和8年から10年にかけて製造された食堂車である。
総勢は21両だった。
車体構造は、戦前型標準の車体端に絞りの入ったタイプで、窓上下に補強板のウインドシル・ヘッダーが付く。
溶接技術の進展期であり、昭和8年製の37800~37809は車体裾とシル・ヘッダーにリベットがあるが、37810以降は全溶接となりリベットがなくなった。
この時代の食堂車は資材搬入口を含めてドアがなかったが、スシ37800も同様である。
屋根はシングルルーフの丸屋根である。
窓は食堂部が700mm幅の2枚窓、厨房部は700mm幅で2段式の曇り窓である。
厨房部分の屋根裏には水槽があり、屋根上に給水口があるのも特徴である。
また、車掌室と喫煙室は600mm幅の2枚窓となっている。
なお、事故廃車になったスシ37728の台枠を利用した37818のみは試行的に食堂部の窓に1200mm幅の広窓を採用していて、大きく印象が異なっている。
台車はこの時代標準のペンシルバニア型の3軸ボギー台車TR73を履く。
以上から、趣味的分類上はスハ32系に分類されている。
なお、上述の37818だけは事故車の台車・台枠を再利用したため、イコライザ式のTR71を履いている上、台枠は魚腹式で、厳密なスハ32系とは少々異なる向きもある。(種車となった37728はオハ31系に属するスシ37700形で、一世代前の車両だった。)

さて、何故乗り心地の良いとされる3軸ボギー台車になったかといえば、過去のマシ38の稿でも述べたとおり、元々食堂車が一等客向けの設備であり、昭和初期には上流階級の社交場としても機能していたことによる。
大きな商談や縁談が行われたという逸話もあり、食堂車は立派な優等車両だったのである。

ちなみに調理設備は石炭レンジを使い火力も十分で、特急列車ではかつてはホテル顔負けの料理も出されたとの言い伝えもある。

さて、スシ37800形は登場後は幹線の主要な長距離急行列車や特急列車に使用された。
当時を代表する国際特急列車「富士」にも使用されたが、まもなく登場した冷房付きのマシ37850が登場して置換えられている。
しかしながら、当時を代表する「燕」や「鴎」にも使用されており、まさに黄金期だったと言えよう。

昭和16年の称号改正では、ほぼ同様の設備を持つオハ31系のスシ37700、スハ32系で二重屋根のスシ37740とまとめてスシ37となった。
スシ37では元形式に関係なく製造順に通し番号となり、元スシ37700がスシ37 1~38、元スシ37740はスシ37 39~57、元スシ37800はスシ37 58~78となった。
これが戦後になってダブルルーフ車を含めて「スシ37一族」と呼ばれる所以である。

さて、栄華を誇ったスシ37800(→スシ37)であるが、やがて戦争が始まり戦局が悪化してくると、食堂車は不要不急とされ、元スシ37800グループは一部を除いて調理室付き三等車のスハ(シ)48に改造された。(シは小文字で表記されていた。)
なお、戦災で元37819(→37 77)であるスハ(シ)48 32が廃車になっている。
ちなみにスシ37グループのうち元スシ37700の全車とスシ37740のうち7両は厨房も取り払って全室三等車のマハ47となり、戦後になっても食堂車として復旧されることはなかった。

さて、昭和20年に戦争が終わったが、国内事情の混乱はスシ37一族に波乱の運命をもたらす。
戦後急行列車の運転再開に伴いスハ(シ)48を食堂車に復旧させるも、進駐軍がそれを見逃すはずもなく、戦時改造されなかったスシ37も含めて次々と接収される。それどころかスハ(シ)48を直接接収のうえ食堂車に復元している。
その一部には冷房装置を取り付けられ、これが戦後の冷房車の歴史に大きな意味をもたらす事になる。
また、スハ(シ)48のまま接収されたうち、一両が部隊輸送向けの簡易食堂車スシ39 4となった。
これらの接収車両は室内をニス塗りからクリーム色のペンキ塗りに変更され、明るいイメージに変更されている。これはアメリカ人の感性によるものだが、室内が明るくなる効果もあり、後の多くの車両の内装に影響を与える事になった。
なお、接収車両は主に軍専用列車に使用され、荒廃した車両ばかりが充てられた日本国民に複雑な感情をもって見られる存在となった。

一方で、元スシ37 67は国民向けに半室の食堂車として復元され、元から半室食堂車のマイシ37900やスロシ38000だったマハ(シ)49の食堂を復元したスハシ37に編入され、急行きりしまの元になった東京~鹿児島間の急行等に使用された。

昭和24年には、進駐軍の意向により特急列車が復活することになり、スハ(シ)48のまま残っていた2両と接収解除になったスシ39 4を食堂車として復活させた。この際には接収車と区別をするためスシ47となった。
さらに後で接収解除になった元スシ37 71を編入しているが、接収時に喫煙室と車掌室を撤去して厨房を拡張しているため、番台区分されてスシ47 11となった。
スシ47は特急「平和」(後に「つばめ」)に使用され、マシ35・36の登場で特急を退いた後は急行列車に使用された。
その後、サンフランシスコ条約により日本の独立が回復し、スシ37は徐々に返還されて来る事になる。

さて、戦後の混乱も落ち着きつつあった昭和28年には増加する2軸ボギー車の車両形式に余裕がなくなったため、3軸ボギー車が使用していた末尾が7の形式番号を2軸ボギー車に明け渡すため称号改正が行われた。この際、設備仕様がほぼ同じで二重屋根を持つグループはまとめて29という形式番号が与えられたが、同時に冷房車については冷房装置による重量と走行負荷を加味して重量ランクを「マ」とすることにした。(ちなみに、この時代は非力な蒸気機関車が主力だったこともあり、冷房付の客車は冷房不使用の時期には冷房装置を取り外していた。と言うのも、冷房装置自身の重量もさることながら、冷房の動力に車輪の回転力を利用していたため、その分走行負荷が増えたのである。なお、称号改正までは重量ランクを変えず、牽引定数に臨時に冷房分の負荷を足す運用とされ、冷房使用期の冷房装置と走行負荷は合わせて換算重量0.5両(5tに相当)として運用された。)
スシ37とスシ47は非冷房車と冷房車が存在したため、非冷房車をスシ28とし、冷房車は冷房装置付きの重量ランクのマシ29とした。
さらに二重屋根の元スシ37740グループをそれぞれ0番台、元スシ37800グループは100番台となった。

ただし、室内レイアウトが変わった元スシ47 11はマシ29 201と番台区分された。
また、時期を前後して復元されずに残ったスハ(シ)48とスハシ37 11を食堂車に復元している。
この時、室内設備の痛みが激しくなっていたので、内装をリニューアルして当時最新のマシ35並にした上、室内灯を蛍光灯化したため別形式となり、スシ48となった。


以上のとおり、スシ37800形は戦前の食堂車の主力にして、戦争によって波乱の歴史を持った車両たちなのである。

さて、昭和28年の称号改正で5つの形式番台区分となったスシ37800グループの各々の歴史については、それぞれの「夜汽車の客車たち」で書く事にして、この場はまとめとして、昭和29年現在の元スシ37800形について整理してみようと思う。

・スシ28-100
白熱灯照明で非冷房のグループ。全部で5両が存在。
このうち102を除いてリベット付きの初期車である。なお、103~105は冷房付きのマシ29だったが、マシ49に冷房を譲り非冷房となったもの。

・スシ28-150
広窓の元スシ37818である。魚腹台枠ということもあってか非冷房だった。台車は釣合い梁式のTR71のまま変更されていない。
スシ28 151の一両だけの存在。

・マシ29-100
白熱灯照明の冷房車
総勢7両の多数派である。このうち101のみがリベット付き。上述のとおり、102~104は冷房装置をマシ49へ譲ったためスシ28になった。
昭和29年頃に厨房部分を除いてベンチレータを撤去している。

・マシ29-200
軍の部隊輸送用に喫煙室と車掌室をなくして厨房を広くしたスシ47 11を改番したもので、マシ29 201の1両だけの存在。冷房車。昭和33年に室内を復旧して100番台と同一になり、100番台と混用された。
外観はリベットなしの100番台と同一。

・スシ48-10
内装リニューアルと蛍光灯照明化を行った非冷房車。全部で6両存在したが、うち13~15の3両は冷房化してマシ49になった。
残った3両のうち11、12がリベット付きとなっている。
喫煙室の窓配置が600mm幅の2枚窓から700mm幅の1枚窓に変更されことと、冷房準備工事がなされているため、非冷房ながら屋根に冷房装置用の点検蓋があり、同じ非冷房のスシ28-100とは外観が異なりる。

・マシ49
特急「かもめ」用にスシ48 13~15を冷房化したもの。
元スシ48であるため蛍光灯照明で、全てリベット付き。喫煙室も窓が変更になっている。
マシ49は冷房車ながらベンチレータが撤去されなかったため、マシ29とは外観が異なり、外観的には床下機器を除けばむしろスシ48-10と同一である。


さて、元スシ37800一党は昭和30年代前半に第二の黄金期を迎えるのだが、続きは各形式の記事へのお楽しみである。


写真1枚目:戦後の元スシ37800グループの代表格となったマシ29形100番台。
マロネ29やスロ33を思わせる、整然と並んだ食堂部分の2枚組の狭窓が特徴的だ。
こちらは元は昭和10年以降に製造された後期形でリベットがなくスッキリしている。

写真2枚目:こちらはマシ49形。元は昭和8年製造の初期形。ゴツゴツしたリベットが目立つ。
厨房部は開閉可能なスリガラスの2段窓になっているのが特徴。
この伝統は形を変えて24系客車の食堂車まで受け継がれていた。

写真3枚目:並んだマシ29とマシ49。元はどちらも同じスシ37800。それぞれ違う方向へ改良工事された。

キングスのマシ49を組み立てる。

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マシ29形100番台組み立て記事に書いたとおり、今年は増備を絞るつもりで、マシ49は将来検討としていた車種なのだが、キングスホビー製ながら、コンバージョンキットで組むより安い値段ででていたのでマシ29形100番台と共にオークションで落札したものである。

マシ49の詳細については別途起こす記事を参照いただくとして、簡単に説明すると、スハ32系グループに属する戦前製の食堂車である。
スシ37800形として登場し、スシ37グループとして戦前の食堂車の主力であったが、戦時体制となり食堂は不要不急とされ、輸送力増強のため厨房付き三等車に改造された。
マシ49はその中で接収を免れたものの内装が痛み、戦後になって食堂車に復元する際、室内を当時最新の食堂車マシ35に準拠したものに改装のうえ、照明を蛍光灯化してスシ48となった後、特急「かもめ」用に冷房化したものである。

ちなみに、元スシ37800形は総勢21両で1両が戦災で消失し、戦後は20両が活躍したが、マシ49はたった3両の小世帯だった。

外観は、マシ29形100番台と同じ元スシ37800であるため、戦前形標準の丸屋根に狭窓が並び、三軸ボギー台車を履くのはマシ29と一緒であるが、マシ29と異なり冷房改造後にもベンチレータは撤去されず、また、スシ37800形の中でも初期のグループの改造車であるため車体にはリベットが付いており、同じ元スシ37800形の冷房改造車であっても雰囲気は異なっている。

マシ49となった後は予定どおり特急「かもめ」に使用された。
オシ17の進出で特急から追われた後は急行「雲仙」「阿蘇」「さつま」と使用され、昭和41年に引退した。
なお、「かもめ」がオシ17に置換わる昭和34年から35年にかけてを除いてマシ49の3両は常に一緒に使用された。

さて、前置きが長くなったが、いよいよ組み立てに入ろう。

さて、写真のとおり、例によってパーツ満載のキングスホビーである。
コンバージョンキットが側板のみなのと対照的だ。

そして、例によって難関の雨樋貼り付けが待っている。
マシ29の時の反省を生かし、まずは無水アルコールで接合面を拭いて洗浄。
マスキングを行い、黒瞬間を雨樋側へ塗って取付け。
アイスの棒を使ってガイドとし、慎重に取付けると、いままでに無いくらい綺麗に取り付ける事ができた。これは快挙だ。
黒瞬間もすぐには固らず調整が効いたので上手い具合に行った。

とはいえ、やはりマロネ41の時より固まるのは早く、どうも空調を入れてるとはいえ高温多湿であることも原因の様だ。
瞬間接着剤は水分を取り込む事で固化するのである。

側板の接着も雨樋での具合を見て慎重に行う。
ややズレがあったので一度剥したところ、その部分だけ接着剤が固まって塊になる現象が発生。
明らかに「何か」が硬化促進剤の役目をしている。
これが何か判ればさらに使いやすくなるのだが。

最終的には納得の行く仕上がりとなったので良しとする。
ここでもマシ29の経験が生きている。
位置決めが上手く行ったところで通常の瞬間接着剤で補強する。


側板が終わったら、次は車端仕切りだ。
ここの構成はマシ29同様だ。

ブロックを使って直角を出しつつ、こちらは普通の瞬間接着剤で固定する。
その後、仕切りの上板に沿って側板を曲げる。
これも良い具合にカチッと決まった。
枠になったところで屋根を合わせてみると、なかなか良い具合だ。
やはり、私は初回より2回目の方が遥かに上手くやれるらしい。

厨房側の妻板に梯子を付けるのもマシ29同様。今回は色気を出して0.5mmの穴でやってみたら、やや苦労した。
梯子の接着が終わったら、お次は車体への接着。
これがガチっとはまってちょっと感動。屋根もピタっとはまり、自分にしては上出来だ。
繰り返すがマシ29の失敗様様である。

さて、お次は屋根だ。
マシ49は冷房車ながらベンチレータがあるので、ベンチレータを取り付ける。
マシ49は3両のうち2番だけベンチレータが一個多いのだが、今回は1番にするつもりなので5個だけ付ける。
GMキットと違って屋根裏にスケールがモールドされていて、予め穴をあけるので位置決めはしやすい。

厨房部分の大形ベンチレータと煙突は専用パーツが付いている。

キングスホビーが別売りパーツとして売っているのと同じものだ。

マシ29同様に真鍮製の空調用点検蓋が付く。こちらはマシ49独特の一回り大きなモノだ。
電話帳と鉛筆を使って丸めるが、今回は鉛筆の上に定規を乗せてみたら、アッサリと丸みが付いた。前回の苦労が嘘の様だ。

空調蓋を黒瞬間で屋根に接着。なかなか良い感じだ。
車端の屋根ステップも押し込みすぎない様に慎重に乗せる。
今回は合格点だ。

これで屋根はできあがり。
これを車体に乗せるとなかなかゴキゲンな感じになる。

次は床下だ。
マシ49はマシ29と違ってキングスホビー製の床下機器である。
今回は蓄電池はそのまま。空調用発電機も専用のものが付いている。
KM形床下空調装置はマシ29同様だが、マシ49の物にはマロネ40と同様の整風用のフィンがついている。
これを付けるのがなかなかの難作業である。
整風用フィンは幅1mm・長さ3mm程の細い部品で、これを約1mmピッチでピンセットで取付けるが、なかなか上手く行かない。
四苦八苦してようやく付ける事ができた。

あとはこれを床板に付ければ、機器満載感のある冷房付き客車の床下の完成だ。


マシ29同様、厨房部分と喫煙室・車掌室部分に真鍮製の仕切りが付いている。
ところが、マシ29と同じものとなっていて、実はマシ49は厨房側通路のドア位置が異なっているのだが、ここは目をつぶる事にした。

残りの内装は椅子とテーブルを除いて当然自作。
室内灯対応にするため色々と工夫が必要になりそうだ。

なお、マシ49には屋根上の給水口用パーツが付いているのだが、ネット上のスシ48やマシ49の写真を見る限り、どうにもこのパーツが付いている気配がない。
屋根裏に水槽はあるはずなので、控え目な形状の給水口があるのかもしれない。
該当パーツは2組付いているので、マシ29の他、過去に組んだマシ38にも付けようかと思っている。


写真1枚目:マシ49のパーツ状態写真。パーツ点数の多さは相変わらず。

写真2枚目:枠型になったマシ49。車体に端とシル・ヘッダーに並ぶリベットは、スシ37800形のうち初期のグループだった証である。
一番手前の窓は喫煙室で、700mm幅の1枚窓になっているのがマシ49・スシ48の特徴だ。
ちなみにマシ29・スシ28ではここが600mm幅の2枚窓になっていて、見分けが可能となっている。

写真3枚目:床下と屋根をはめ込んだ状態。床下にみえる金属部品が空調装置だ。