夜汽車の汽笛への憧情 -143ページ目

キングスホビーのTR73を組み立てる

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現在、Nゲージ用の3軸ボギー台車であるTR73を手に入れるには、KATO製の展望車用ASSY部品か、キングスホビー製の二択である。
KATO製のものはプラ製でディテールも細く、転がりも素晴らしいのだが、イマイチ入手難であり、我が家にとり致命的なのはアーノルトカプラーの装着が困難なのである。
また、ピンの位置の関係でキングスホビー製はもちろん、GREENMAX製の床板でもボルスタの位置を調整する必要があり、甚だ面倒だ。

キングスホビー製は真鍮キットのメーカーらしく、ホワイトメタルと真鍮板の組み合わせだ。ディテールはKATO製に劣るが、転がりは調整次第でKATO製以上にもなる。重量がありどっしりしているので、室内のウエイトが不要になるほか、脱線が少ないのも魅力だ。そして重要なのがアーノルトカプラー前提の作りになっていて、さらにGREENMAX製床板に無改造で装着できる。高価なのと、車輪とカプラーを別途調達の必要があるのが難点ではあるが、それを補って余りある。

という訳で、我が家の三軸ボギー車はオークションで買った組み立て済を除けばキングスホビー製台車を履いている。
そして今回もキングスホビー製を買ったと言う訳であるが、今回はキングスホビー製のキットに取付けるのが目的であるので、自明な選択肢ではある。

従来は組み立て塗装済のものを買っていたのだが、今回初めてキットを買ってみた。

さて、写真1枚目がパーツ状態のもの。
ホワイトメタルの部品と、キングスお馴染みの真鍮製の部品である。
真鍮製部品は写真は既にランナーから切り離した状態だが、購入時は写真右下のランナーに付いている。

真鍮パーツは台座部分(写真上左)とカプラーポケット(写真上中)からなっていて、カプラーポケットは一見複雑な形をしているが、スジに沿って折り紙の様に折ると箱になる。
これを小さなネジで台座にとめてやればカプラーポケットのできあがり。
簡単だ。

また、ホワイトメタル台車の側板も小さなネジで止めるだけ。
実に簡単だ。
あとはメタルプライマーを塗って黒で塗装すればできあがりだ。

ちなみに組み立て塗装済とキットの価格差は600円近く違う。
これなら自力で組み立てた方がずっと得だ。
今後はなるべく自力で組み立てようと思う。が、意外と組み立て済の方が在庫があったりする。

ところで、キングスホビー製のTR73も最近は品薄の様で、なかなか見つからなくなってしまった。

知っている範囲では在庫は組み立て済のものが一個だけだ。
再生産まで三軸ボギー車の増備をやめるべきかどうか思案中である。

ここらで荷物車や郵便車を組んでみるのも良いのかもしれない。


写真1枚目:パーツ状態のTR73。ホワイトメタルと真鍮板の組み合わせ。

写真2枚目:組み立て後の姿。台車らしくなってした。

写真3枚目:塗装して完成。車輪とカプラーはGREENMAX製。

オロ35近代化改造車を組み立てる。

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今年の第三弾としてオロ35を組んでみることにした。

マシ29と記事が前後しており、実際に組んだのは6月頃である。

さて、オロ35について詳しい事は過去の記事を参照していただくとして軽く解説すると、昭和9年登場の二等車で、昭和16年までに70両が製造された、戦前の長距離形二等車の標準形である。

車内はシートピッチ970mmの転換クロスシートが並び、定員は64名。戦前から戦後にかけて普通列車から特急列車まで広く活躍した。
車体は当時標準的な丸屋根と、車端部分に絞りが入った構造で、溶接技術の進展期にあたるため、初期の車両は車体裾とドア横、シル・ヘッダーにリベットが付いているが、昭和11年以降に製造された後期の車両は全溶接となりリベットのない車体となっている。
台車は当時の代表的なペンシルバニア型軸バネ式台車のTR23である。

番号は35だが趣味的分類上はスハ32系に属する。同じ設備を持つ二重屋根車にスロ32があるが、技術の進展による軽量化で重量ランクが変わったため別形式になっている。

戦後は特別二等車スロ54等の登場で設備が相対的に陳腐化したため、昭和30~31年にほぼ全車を対象に近代化改造が行われた。内容は窓のアルミサッシ化、照明の蛍光灯化、内壁のペンキ塗り化、ドアを鋼板ドアへ交換等で、新旧入り交じった独特の風貌になった。
なお、昭和34年以降に一部が電気暖房を取り付け、重量ランクが変わったためスロ43になっている。
この改造のおかげか、他の戦前型二等車に比べて遅くまで優等列車で使用された。

ところで、我が家にはMODEMO製のオロ35が既に在籍しているが、こちらは近代化改造前の原形車であり、昭和31年にはほとんどの車両が近代化改造済だった事を考慮すると、昭和30年代の編成を組む際にはやや違和感のある状態になっていた。
そこで今回は戦前型ボディーにアルミサッシという特徴的なスタイルの近代化改造車を配備することにしたというわけである。
(なお、我が家にあるMODEMO製のオロ35には例外的に最後まで近代化改造されなかった7番を付けている。)

さて、今回買ってきたのはTAVASA製のキットである。
オロ35の近代化改造車のキットは慣れ親しんだレボリューションファクトリー製や高価ながら出来のよいキングスホビー製もあるが、敢えてTAVASA製にしたのには理由がある。
上述のとおりオロ35にはリベットの付く初期車とリベットのない後期車があるが、このうちリベット付は21両であり、リベットなしの方が圧倒的に多数派だったのである。
ところが前出の2社が近代化改造車として製品化しているのは少数派のリベット付きで、TAVASA製が唯一多数派のリベットなしだったのである。

さて、キットは最近のコンバージョンキットでは標準的な内張りと外張りを合わせる方式で、特徴的なアルミサッシにはシルバーの洋白製パーツが別に付いている。
これにより、わざわざサッシ塗り分ける必要がない上に金属の地色を使えるので質感も抜群と言う訳だ。
内張り・外張りは折り畳む様に付ける構造になっていて、位置決めの必要がない親切設計だ。

さらに、Hゴム固定窓のドアとして同社製の交換用ドアパーツも用意されている。
ところが、これがドア窓がやや小さい「標準タイプ」と言うもので、実車では昭和20年代末期のスハ43後期型やオハ46に多用された大窓の方が多かった様だ。(標準窓もなかった訳ではなく、写真でもいくつか例が見られる。)
そこで、例によってTOMIXの交換用ドアを使うことにした。
余ったドアは他で利用させてもらうことにする。

雨樋は平板な表現なので、レボリューションファクトリー製の2段雨樋を使う。
細いが様だが、これを使う使わないで見た目がやはり結構異なる。
さて、ランナーから側板を切り離し、内張りと外張りを折り畳む様に接着する。
接着剤には例によって黒い瞬間接着剤を使用する。
これなら万一はみ出ても除去が簡単にできるからだ。
キットでは床板止め用に爪を出す様にしているが、車高をKATO製に合わせるためとりあえず無視し、デッキ部分のみ爪を立てておく。
お次は雨樋。
車体に予めマスキングテープを貼っておき、雨樋には黒い瞬間接着剤を塗布する。
ヌルヌルと位置を修正しながら固定。位置が決まったらクリップで圧着すると、その部分はいくらか硬化が早い様だ。
今までのような神経を磨り減らすような作業ではなく、楽チンである。
実際、うっかり手を滑らせて雨樋を車体に落としてしまったが、マスキングしてあるので接着剤は車体に付かず、しかもすぐ固まらないので接着されてしまうこともない。
全くノーダメージで雨樋を取付けることができた。
黒い瞬間様々である。
無論、作業時間も大幅に短縮された。

さて、お次は問題のドアである。
本当なら切り妻車の様にドアを差し込み式にしたかったが、絞りが入っているため作業中の強度上それができず、予めドアを固着させることにした。
ドアは一ヵ所だけ接着シロを兼ねてはめ込み用突起を残したが、意外と手間だったので残りは突起を撤去した。
裏から黒瞬間を盛って固定したが、やや強度に不安が残る。
結果的に突起は残した方が良かった気がする。
交換ドアがスチロール樹脂であればプラ用接着剤で融着できるのだが、ざんねんながらABS樹脂だった。

4ヵ所ともドアの交換が終わったら、いよいよオハ35からデッキを切り離してオロ35の側板に取付ける。

その後妻板を取付ける。
レボリューションファクトリー製の時は先にドアを妻板に取付けたが、半ばお試しである。
結果としては、レボリューションファクトリー製方式のほうが良かった様だ。
というのも、側板パーツの重みで、硬化中に妻板とデッキが若干ずれてしまったのだ。
レボリューションファクトリーの説明書の方法にはこんな根拠があったと言う訳だ。

気を取り直して、屋根と床下の工作に入る。
床下はオハ35ほぼそのもので、機器取付けもなれたものである。

屋根上は説明書どおり、トイレ部分のベンチレータがない8つのパターン。
ほぼ等間隔で並んでおり、さして苦労しなかった。
余談だが、トイレ部分のベンチレータは近代化改造時に撤去されているが必ずしも撤去された訳ではないようで、ネット上の写真でも両者が確認された。

ベンチレータはGREENMAXの別売品を使用。
いまさらキット付属のには戻れない(笑)

ここまできたらあとは塗装と内装作りだ。


オロ35には給仕室がなく、トイレ・洗面所も一ヵ所なので、ドア付きの仕切りが3枚で済む。
喫煙室座席や給仕室座席もないので寝台車を組むのに比べたらずいぶん楽だ。

仕切り扉はいつもの方法を使用。近代化改造車なので両面ともクリーム1号で塗装。
椅子はキングスホビー製だ。
椅子板の塗装はスロネ30内装リニューアル同様はレッドブラウンを使用した。近代化改造はしているが、床板をリノリウム張りにしたとの記述がどこにもないため、板張りのままとの解釈だが、実際はどうか判らない。
椅子は青15号に塗装。
白のマーカーで枕カバーを表現した。

洗面所は例によってプラシートで洗面台を表現。壁面の一部を銀に塗って鏡も表現してみた。

内装が終わったら外装だ。
こちらはいつものとおりで、金属部分にプライマーとサーフェイサーで下地処理をした後で、伊豆急ハワイアンブルーの帯にブドウ色2号だ。
なお、プライマーが微妙にABS樹脂を侵す様なので、プライマー塗装時にはドアだけマスキングした。
想定年代が昭和31年から35年頃なので無論正統なのはブドウ色1号だが、塗料の入手性によるものだ。

塗装が終わったらお楽しみのサッシ貼り付けだ。
洋白製のサッシをゴム系接着剤で取付ける。
これによりアルミサッシを塗装せずに済む訳だ。金属光沢なので質感も十分だ。

こうするといよいよ近代化改造車らしい独特の雰囲気が漂ってくる。
なお、トイレと洗面所はちゃんと二段サッシだ。

サッシの後は窓の取付けだ。
トイレ窓はいつもどおり、ヤスリで作った曇りガラスである。
洗面所の方は、サッシの中桟より下は曇りガラス、上は透明ガラスを表現してみた。
曇りガラスには透明プラ板に誤って流し込みタイプの接着剤をこぼした時にできた曇りガラス状のものを使ってみたが、これがなかなかロックガラス風で意外といい感じだ。

後はインレタを貼り付ける。
ナンバーは例によりGMインレタの組み合わせ。
等級表示と所属表記はレボリューションファクトリーのインレタを使用。

ちなみにナンバーはオロ35 62とした。所属は東シナ。昭和33年10月現在で品川客車区に配置されていたことが判っており、おそらくそれ以前に「筑紫」等に使用されたと思われる。
なお、昭和33年10月から多くの急行列車で二等車自由席に元特ロ車が使用される様になった事から、普通列車や団体・臨時用になったと思われる。

あとは内装を組み入れて床板と屋根を付ければ完成だ。

デッキ部分の車体削り込みが不足したのと組み付けが甘かったことからやや車体が太くなってしまった。反省材料だ。
ドアもやや斜めに付いてしまっており角度によって歪んでみえる。

やはり暫く組んでいないと腕が鈍ってしまう様だ。
これからはなるべくコンスタントに組んで行きたいものだ。


写真1枚目:組み立て中のオロ35
初のTAVASA製キット。サッシは後付けのためまだ付いていない。

写真2枚目:いきなり完成w
整然と並ぶアルミサッシの小窓がチャームポイント。現在も辛うじて残る平屋の普通列車用グリーン車サロ211の源流を思わせる。
車体に似つかわしくないHゴムドアもポイントだ。

写真3枚目:車内は転換クロスシート。
我が家に既に在籍している寝台併設の珍車マロネロ38の二等座席と同じ設備である。
主に長距離用として製造され、かつては名士列車や特急列車にも用いられたが、戦後は大形クロスシートの二等車と距離に関係なく混用された様だ。

キングスのマシ29-100を組み立てる。

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昨今の不況で経済状況もイマイチなため、今年は車両増備を絞っているのだが、その中で上がった増備リストにマシ29が載っていた。そんな折、ヤフオクをみていたらキングスホビーのマシ29-105~キットを発見。安価かつ予算枠内だったので、かなり久しぶりに入札して落札した。

マシ29形100番台について軽く説明すると、スハ32系に属する戦前製の食堂車である。
スシ37800形として誕生し、スシ37の一族として戦前の食堂車の主力となっていた。
しかし、戦時体制により食堂が不要不急設備とされ、その大部分が厨房付き三等車となった。
マシ29形100番台は、そのうち戦後にいち早く食堂車に復元された上進駐軍に接収され、その時に軍により冷房改造したものである。
外観は戦前形らしい丸屋根に700mm幅の窓がバラバラとならび、三軸ボギー台車とそそられるスタイルだ。
昭和29年頃の改造で屋根上のベンチレータが取り払われ、狭窓が並ぶ車体とは対照的に、スッキリした印象なのが特徴的である。
戦後は主に東京と九州を結ぶ急行列車で活躍した。

さて、マシ29形100番台は総勢10両で、そのうち昭和8年製造のリベット付きは4両、リベット無しが6両となっていた。つまり、マシ29 101~104がリベット付き、105~がリベット無しとなっていて、今回組み立てる車両はキットのお題目どおり、105~なのでリベット無しの多数派である。

余談だが、リベット付きのうち102~104は冷房装置を昭和29年にマシ49へ提供したため、スシ28 103~105となって早々と消滅し、リベット付きで丸屋根のマシ29は101だけとなった。

さて、写真1枚目を見てのとおり、相変わらず部品満載である。
マシ29にはドアがないが、食堂車の特徴である厨房の仕切りや、専務車掌室、喫煙室の仕切りが入っている。

また、マシ29の特徴的な機器であるKM式の床下冷房装置も付いている。
ただ、落札したキット自体が古いせいか、床下機器の主な部品がGMキットお馴染みのパーツだったり、ベンチレータがホワイトメタル製だったりしている。
また、ガーランドベンチレータの形をした煙突が、通常のベンチレータを削って取り付ける様指示されてたり、大形ベンチレータが電車用の流用だったりする。(同時に落札したマシ49は専用パーツ付き)

さて、いよいよ組み立てに入るとしよう。
黒い瞬間接着剤を利用して雨樋の接着を行う。
とっかかりの難関だ。
「黒瞬間」で楽勝!と思っていたら大きな落とし穴が待っていた。
このキットは製造からだいぶ経っている。
つまり酸化や汚れがあるのだが、この黒瞬間はそれらをつけると普通の瞬間接着剤の如くあっという間に固まってしまったのだ。
おかげで微調整が効かず、やや曲って付いてしまったのであった。
ちょうど硬化促進剤が付いた様な状態だったのだろう。
マロネ41を組んだ時はかなり調整がきいたので、その感覚でいたのだが…。

側板も例によって内板と外板を合わせるものだ。
こちらもマロネ41同様に調整が利くかと思ったら思いの他早く固まってしまい、やや不満の残る形になってしまった。

同様にオクで落札したマシ49のキットが控えているが、どうやらこちらは先に洗浄したほうが良さそうだ。

気を取り直して作業を続行。
マシ29にはデッキはないが、通常デッキがある部分に機器室があり、その部分への仕切りがある。
それがデッキのある車両と同様の天井板の付いたものとなっている。

これが車端の絞りのガイドとなるわけだが。うっかり車体をフィーリングで曲げてしまい、これが後で思わぬ事態を引き起こす事になる。

両方の側板を仕切りを通して箱型にすると、鉄道車両らしくなってくる。

お次は妻板。

食堂車には屋根裏の水槽に水を入れるための係員用の梯子が、厨房側の妻板に付いている。
プラ製の製品ならモールドになっていることが多いのだが、そこは真鍮キットのキングスホビー。真鍮製の梯子パーツを付ける事になる。
細い穴をあけて梯子を差す訳だが、かつてコンバージョンキットのマシ38でえらく苦労した記憶が甦る。

ただし、こちらは妻板裏側に孔開け用のガイドがあるので、その点が楽だ。

開き直って大きめの穴を開け、接着剤大盛りで差し込み。
思った以上に気にならない。これは使えるかも。

喫煙室側はそのまま取付け。
これで枠型になった。
さて、ここで屋根を合わせてみたところで事件発生。
片方の側板の長さが足りないのだ。
そんな馬鹿なと思いつつ、ふと思い出したのが先程の事である。
フィーリングで曲げたために、曲げの角度が左右で微妙に異なり、屋根の長さと合わなくなっていたのだ。

曲げの角度を調整し、屋根を合わせることを繰り返すと、ようやく許容範囲になった。
車体はこれで終了だ。

お次は屋根だ。
数少ないベンチレータと空調用の点検蓋を取付ける。
付属のホワイトメタル製ベンチレータは使わず、同じキングスホビー製の食堂車用ベンチレータを取付ける。
大きなベンチレータと、少しオフセットして付いているベンチレータ状の煙突を取付けると、いかにも食堂車の屋根らしくなってくる。

空調用点検蓋は真鍮製。
これが曲者で、自分で屋根カーブに合う様曲げろとのこと。
説明書には電話帳の上に空調蓋をおき、その上に棒を押し付けながら転がして丸みを付ける様に書いてあるのだが…。
棒代わりに丸い鉛筆を使ったが、あっという間に手が痛くなったw
しかもなかなか丸まらない。

気合いと根性で何とか丸みが付くと、既に手が筋肉痛になっていたw

説明書には屋根よりきついカーブになる様書いてあったが、屋根よりやや浅いカーブにするのが精々だった。

しかし、これを屋根に付けると、なかなか雰囲気が出る。
頑張った甲斐があった。

車端部分にはステップが付いているが、これもモールドでなく真鍮製の部品を付ける様になっている。
穴は最初から空いていりので楽なものだ。

と、油断していたら、差し込みすぎてステップに勾配ができてしまった。不覚。
激務で頭の回転が鈍っていたことも原因の一つだろう。

さて、ここまで終わったらお次は床下機器の取付けだ。
慣れ親しんだGMパーツなのでこれはスムーズに行った。
冷房用の発電機だけは説明書の指示と異なり、キングスホビー製の専用パーツを付ける。
また、真鍮製のKM式床下空調装置が特徴的なアイテムだ。

こうしてみると、客車ながら電車並に充実した床下で面白い。
なお、電池箱は実車のマシ29 105に中途半端なサイズのものがついており、蓄電池パーツをレザーソーで切り刻んで再度接着。
最後に黒瞬間で固めて完成。
目標よりやや大きくなったが、雰囲気はそれっぽくなったので良しとする。

さて、キングスホビーの食堂車には厨房用の仕切りと、喫煙室・車掌室の仕切りが付いている。
やはり真鍮製のパーツである。
ランナーから切りだし、折り紙のように組む。
ドア付きの仕切りは内装作りで一番手間がかかるだけに、これのおかげでだいぶ楽ができる。
もっとも、真鍮パーツはモールドが片面にしかなく、ガラスもないので、仕上がりは±0と言ったところか。

あとは台車を付けて塗装すればキットとしては完成となるが、ここから内装と室内灯の取付けが待っている。

なお、同時購入したマシ49に、屋上の給水口のパーツが付いていた。
実はネット上にマシ29 105の写真があり、そちらでもその存在が確認できるので付けてみるつもりだ。


写真1枚目:マシ29-100のパーツ。相変わらず満載だ。
それでもデッキがないぶんは寝台車よりも幾分簡素だ。

写真2枚目:枠型に車体を組んだところ。
手前の窓が不等間隔に並ぶあたりがいかにも食堂車らしい。
この部分は厨房部分の側廊下にあたり、最近の食堂車ならば業務用ドアと高窓が並ぶところだ。
リベットがなくスッキリした車体は元スシ37800でも後期の車両である証だ。

写真3枚目:マシ29の特徴であるベンチレータがほとんどなくつるっとした屋根。床下にみえる金属の部品は空調装置だ。
一番手前の2枚窓は喫煙室で、ここと向い側の車掌室だけ600mm幅の窓になっている。

模型の自作室内灯への道

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これまで多数の「夜汽車の客車」を集めてきたが、室内灯に対応していない組み立て式の物が多いこともあり、室内灯の組み込みは敢えて行っていなかった。
しかし、世の中には自作室内灯を作ってキット組み立て車に室内灯を付ける人がいることが判り、しかもメーカー製の室内灯ユニットよりも遥かに安価ということで、自分もいよいよ挑戦してみることにした。
自作ユニットならば、工夫次第で車両を選ばすなんでも可能だからだ。

さて、鉄道模型の室内灯というのは、要はレールからの電気回路を構成し、発光源をつないでやればいいわけだ。
光源はムギ球とLEDがあるが、今時は小電力で明るく光り、蛍光灯の白い光が再現できる白色LEDを使うのが一番良いと言えよう。
よって、光源は白色LEDとした。

基本的に必要な部品は光源の白色LEDと整流のためのブリッジダイオード(ダイオードを4つ使用してブリッジを組んでもよい)、それからLEDに過大な電力をかけないようにするための抵抗またはCRD(定電流ダイオード)だ。
他には電流を導くための銅板や導線、車内に光を行き渡らせるための導光板がいる。

TOMIXの常点灯システムに対応するならさらにコンデンサーがあるとよい。これはちらつき防止にもなる様だ。
直流で駆動する鉄道模型になぜブリッジダイオードが必要かと思う方もいるかもしれないが、鉄道模型は前進時と後退時で電流の向きが変わるため、LEDの室内灯を点灯させるには電流を一定方向に強制する必要があるためだ。ちなみに電球ならばこれは不要だ。

さて、今回の点灯化試作車として選んだのは、前回内装をリニューアルしたばかりのスロネ30だ。
元オーナーの工夫で台車側の集電環境が既に出来ている事と、自作内装を備えている事で、良いモデルケースとなるからだ。

さて、自作室内灯を組むにあたって、一番頭が痛いのはブリッジダイオードをどう納めるかだろう。
縦横サイズはおよそ7mmと6mm。厚さは約2mm程で、常識的には決して大きな部品ではないが、小さいNゲージ車両にとっては巨大とも言えるサイズなのだ。
これをどこに納めるかがポイントだが、とりあえずトイレ・洗面所部分に納める事にした。
特別二等車なら荷物保管室の部分が使えそうだが、定員外スペースの小さい三等車は悩ましい事になりそうだ。
使用したブリッジダイオードは新電元社製S1NB60。耐電圧は600V、電流は1Aだ。本当はこんな耐圧はいらないが、素子のサイズがこれ以下だと何故か大きくて、見掛けた中でこれが一番小さいサイズだった。本当はD1UBA80というのがもっと小さい様なのだが、残念ながら見つからなかった。どうやら通販で買うしかなさそうだ。
上述のとおり、チップダイオードを4つ使用してブリッジを組む方法もあるが、これは将来ハンダ技術が上がった際の検討事項にしておこう。
なにせ約20年ぶりにハンダゴテを握る上に、かつてもお世辞にもハンダ付けは上手いと言えなかったからだ。
そんな腕前では素子を熱で破壊するのが関の山である。

実際、最初は銅板と導線をハンダ付けするのすら苦労した。
こればかりは場数を踏んで慣れるしかないのだろう。

ブリッジダイオードの足と銅板、抵抗をハンダ付けする。
これだけで試行錯誤を繰り返しながら何時間もかかってしまった。
しかも一つはブリッジダイオードの足をうっかり折ってしまってやりなおしである。

てなわけでとうにかこうにか形になってできたのがコレ(写真)

導光板をまだ入れていないので光源部分しか光っていないが、一応光らせる事に成功した。
写真3枚目はLEDにオレンジ色のマジックを塗って白熱灯色にしたもの。

室内の配線の都合で従来の床板止めが使えなくなってしまったのと車高が上がってしまったので、もうちょっと工夫が要りそうだ。

まぁなんにしても、第一歩は踏出せたのでとりあえずよしとしよう。

導光板の配置やGREENMAX製台車の集電等まだまだ課題は山積みだが、今後が楽しみだ。

昭和3年称号改正

鋼製客車の量産に伴い、昭和3年10月に称号改正が行われた。
従来は鋼製車も木造車の続番だったが、木造車を29999以下にまとめ、鋼製車は二軸ボギーが30000~36999、三軸ボギーが37000~となった。

夜汽車の客車たち(その33)

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今回は、三等級制度下での一等寝台車のラストを飾り、その後の優等寝台車に多大な影響を与えた、進駐軍肝煎りのプルマン式寝台車、マロネ41についてかいてみる。

1.マロネ41の概要
マロネ41は昭和23年に紆余曲折を経て誕生したマイネ40の増備車として、昭和25年に進駐軍の要望により特別寝台車マイネ41として製造された、二等B寝台(→一等B寝台→A寝台)車である。
元々先輩格のマイネ40が製造された背景には、進駐軍の主体となった身体の大きなアメリカ人がゆったり使えるような寝台車を作れとの進駐軍の命令があった訳だが、当時の一等寝台車は区分室式が主であり、進駐軍自体の要望もあってマイネ40でも車両の半分を区分室・半分を開放型のプルマン式としていた。
しかし、区分室はあくまでバラ売りであり、区分室で見知らぬ人と相部屋になることも多々あった。
利用者の主体は個々のプライバシーを尊重するアメリカ人であり、いざ運用してみると区分室は不評だったのである。
そこで、マイネ41では全室を開放型のプルマン方式としている。
後に20系客車のナロネ21ではこれをベースに設計され、24系客車まで続く優等寝台車の基本形となった。

車体構造は製造の簡素化を狙い完全切妻構造としているが、デッキ側は従来の思想を受け継いで、ドア部分だけ狭いキノコ状のスタイルとしている。
床下に冷房装置を搭載し、風洞を通すためにマイネ40同様深い円柱状の高屋根となり、ユニットの出し入れをしやすい様に屋上にハッチが備えられている。
台車はスハ42から採用されている乗り心地の良いウイングバネ式のTR40Aを履く。
窓は寝台車としては初の1200mm幅の広い窓を採用。非常にゆったりとした雰囲気となった。
デッキドアは木製ながら従来に比べて大きな一枚窓で、デッキに立つ人の視線を考慮したものとなっている。
直後に鋼製のプレスドアが開発されたことから、このタイプのドアは同時期に登場したスロ60やスロ50、マロネ39のみに見られる珍しいタイプとなっている。

以上から趣味的分類上はスハ43系にカテゴリされる事が多いが、基幹形式であるスハ43より早い登場であることや、デッキ側妻板の形状がスハ42とスハ43の間の過渡的な形状となっているため、どの系列にも属さない独立した形式と捉える場合もある様だ。

設備は前述のとおりプルマン式寝台となっており、寝台は幅が約900mm、長さが1900mmの二段寝台である。下段は昼間は大形のボックスシートになり、上段は伝統的な舟形寝台である。
これが片側6区画あり、定員は24名と少なめである。
これは女性用と男性用に洗面所・トイレを分け、それぞれにゆったりとスペースを取っているからで(特に女性用洗面所は更衣室も兼ねた広いものになっている)、アメリカ人の思想を強く反映している。
ちなみにトイレは一般の客車では初の洋式となり、ここも進駐軍オーダーらしい仕様だ。
また、ほぼ同時期に同じく進駐軍の指示で誕生したスロ60と同様にデッキを一ヵ所としているが、デッキ反対側の車端部分は機器室と物置になっていて、機器室より内側に仕切り扉があるためか、貫通扉が存在しないのがマイネ41独特の構造である。

他に特筆すべきは、これまでの客車は内装の木の部分はニス塗りだったが、マイネ41では淡緑色のペンキ塗りを初めて採用。
これも進駐軍の指示に拠るものだったが、明るい車内になることから後に特別二等車を始めとして多くの客車に採用され、やがてそれが標準となっている。
ただし、マイネ40では室内照明が蛍光灯だったが、技術的に未熟でトラブルが多かったため、マイネ41では白熱灯になっている。

マイネ40に続いて冷房装置が搭載されているが、マイネ41では従来車軸の回転力をそのまま利用する直接駆動方式でなく、大容量の発電機を取付け、バッテリーを介して冷房装置自体の動力を電気とする方式となった。
ところが、国内に前例がなく、終戦直後で材料や技術が粗悪だったこともあり、初期には発電機のトラブルが多発したそうである。

製造数はマイネ40の増備車扱いだったこともあり、総勢12両の小世帯だった。

さて、登場直後は日本人が限定的にしか使用できない特別寝台車として軍用列車や東海道夜行の「銀河」「彗星」に連結された。程なくして日本人に名目上使用制限のない一等寝台車となっている。
以降マイネ40と共に「月光」を加えた東海道夜行で使用されるが、一等寝台車は高額故に利用が低迷した事を受け、昭和30年7月に設備そのままに二等寝台へ格下げされ、マイネ41からマロネ41となり、冷房車ということで二等B寝台車となった。
なお、一等寝台車を表すイネとして誕生した客車はこの時点マイネ41が最新であり、この事はマイネ41が最後の「イネ」となった事を意味する。

さて、マロネ41となった元マイネ41だが、この改正と同時に東京~博多間の急行「筑紫」に抜擢。マイネ時代から通して初の定期列車での九州乗り入れとなった。
ところが、初の長距離運転で冷房用の車軸発電機の故障が多発し、結局冷房シーズンが終わるまでマロネ40が代役を勤め、マロネ41は代わりに東海道夜行へ回されたのだった。

昭和31年の夏もマロネ40が代役を果たし、その秋の昭和31系11月には正式に「筑紫」はマロネ40が所定となったため、再び東海道夜行専業になった。
さらに昭和32年10月には急行「彗星」に3両も連結される事になり、予備を含めて2/3にあたる8両が「彗星」用となったため、ますます東海道夜行専業になった。
なお、この頃にマロネ41の特徴の一つだった男女別の洗面所と洋式トイレは、一般的な和式トイレとなり、洗面所も合わせて共用になっている。

さて、冷房付きの二等寝台としては最新鋭のマロネ41に転機がやってくる。
昭和33年に「あさかぜ」用として固定編成用客車20系が誕生し、マロネ41をベースにしたナロネ21が誕生する。
深い丸屋根に電動式の空調、全室プルマン式寝台等が受け継がれたが、特急用として製造されたため、直接的な影響は少なかった。
しかしながら、その翌年にナロネ21を急行用に一般型客車と連結できるようにアレンジしたオロネ10が誕生したのである。
オロネ10の第一陣が8両宮原客車区に投入されると、「彗星」のマロネ41を置換えた。
予備を含めて一気に8両が押出されて品川に移り、「銀河」や「月光」に使用の他、東京と浜田・大社を結ぶ「出雲」にも使用される。
ただし、マロネ41は大阪で切り離しとなり、やはり東海道限定の状態は変わらなかった。
昭和34年9月の改正で呉線経由で東京~広島を結ぶ急行「安芸」に就任。久々に山陽区間への進出となったが、車軸発電機の地道な改良のおかげでトラブルなく運用され、ようやく東海道限定の汚名返上となった。

それ以降、東海道夜行メインで微妙に連結両数や列車の変更はあったものの、大きな変化はない状態が続く。
昭和35年6月には二等級制へ移行。名目上従来の二等車が一等車となり、マロネ41も一等寝台となったがあくまで旧一等がクラス廃止となったものであるため、料金は変らず形式もマロネのままである。

さて、後輩のオロネ10が採用した、小型ディーゼル発電機で発電した電気で駆動する冷房機が安定してきたこともあり、昭和37年夏よりマロネ41もオロネ10の冷房装置をアレンジしたものを使用。電力も安定し、冷房装置のトラブルも格段に減少した。
また、時を前後してマロネ29を置換える形で大阪発都城行きの急行「日向」に投入され、数年ぶりの九州乗り入れとなった。

さて、この昭和37年から昭和39年にかけて、オロネ10と設備レベルを合わせるため近代化改造工事が行われる。
具体的には内装の更新、照明の蛍光灯化等だが、特筆すべきは台車の枕バネを空気バネへ交換してTR40Dとしたことだろう。
また昭和38年度から半数にあたる6両が窓のHゴム固定化・トイレ窓小型化等を行い、20番台となった事も特筆すべきである。この20番台はこの改造により新旧入り交じった不思議なスタイルとなった。
また、20番台の一部にはスロ60近代化改造車同様に雨樋を妻面に移したものも存在する。

さて、昭和39年10月。新幹線が開業し、マロネ41がメインで活躍してきた東海道夜行に激震が走った。
「彗星」を始めとした東海道夜行急行が順次姿を消し、「明星」と「銀河」が残るのみとなった。
夜行区間を東海道本線とする他の列車は残ったが、その運用はオロネ10に置換えられた。
一方で新幹線に連絡して九州方面に行く山陽夜行は活気をみせ、「夕月」や「海星」「音戸」など、マロネ41もそちらに活躍の場を移すのだった。
なお、東海道に残った「明星」「銀河」にはマロネ41が引続き使用された。

しかしながら、最後のイネとして頑張ってきたマロネ41も老朽化は避けられず、昭和45年に先輩格のマロネ40が引退。
そして昭和47年3月15日の改正でマロネ40の後を追う様にマロネ41も全ての定期運用から外れ、昭和49年に全車廃車。
三等級制で最後の一等寝台車を名乗ったマロネ41は22年間の波乱の歴史に終止符を打ったのだった。


2.我が家のマロネ41
我が家のマロネ41はキングスホビー製のキットを組んだものである。
細い事は組み立て記事を参照して頂くとして、ディテールはさすがのキングスホビーと言えるもので、真鍮製ながらプラ製の完成品に見劣りしないものとなっている。
内装は、寝台はキングスホビー製の大形クロスシートを使用。仕切りはデッキ仕切りを除いて自作である。
昭和30年代前半をモデルとしており、塗装はいつもどおりブドウ色1号の代わりにブドウ色2号。等級帯は青で、等級表示が帯に付き、所属表記は形式の上にあるタイプだ。

空調用の蓋を塗り分けているが実車を見ると昭和30年代前半頃は蒸気機関車の煙で屋根とほぼ同色になっているものも見られ、塗り分けしなくてもよかったかもしれない。

我が家への導入目的は東海道夜行全般で、主に「銀河」「彗星」「月光」を予定しているが、昭和34年からの「安芸」や昭和31年頃の「早鞆」「筑紫」にも使用できる。
マロネ41は東海道夜行を組成する上でなくてはならないアイテムなのである。

なお、将来的には青15になり窓をHゴムとした20番台や一等寝台時代のマイネ41のほか、今回組んだのと同仕様のものを2両追加する予定だ。
悩ましいのが昭和34年後期から昭和39年にかけてで、この5年間は目まぐるしく形態が変わる(
昭和34年6月~ブドウ色2号・青帯・等級表記なし。
昭和36年7月~淡緑帯化。
昭和37年夏~冷房装置ディーゼル発電機化。
昭和37年~39年、近代化改造(空気バネ化)。昭和38年から一部20番台に。
昭和39年秋~青15号化。
)ため、どうしたものか悩みどころである。
また、昭和44年以降の等級帯なしA寝台表記も気になるが、ここまでくるとキリがないか。

3.マロネ41つれづれ
マロネ41の特徴と言えば、深い丸屋根にゆったり並ぶ広い窓。どこか現代のブルトレ用客車の原形を思わせる風貌で、現代の客車ファンにも取っ付き易いスタイルではないだろうか。
実は「マロネ」と言う存在を初めて知ったのは高校時代にとある本で見たイラストのマロネ41の20番台で、そこにはシル・ヘッダーの間にHゴム固定窓をはめ込んだ独特の姿が書かれていた。
ずいぶん珍妙なスタイルに見えたがインパクトは強く、「マロネ」と言えば連想するのが暫くはこれだった。
後に静態保存のマロネ40を見ているのだが、依然マロネ41が私の中の旧型寝台車の代名詞だったのである。
それが崩れたのは夜汽車の世界に足を突っ込んだ2年ほど前で、その頃に初めて実車の原形窓車の写真を見てスマートな姿に感心したものだった。

そのスマートさ故に灰汁の強い戦前形の寝台車にはインパクトでは一歩譲るものの、我が家では編成を引き立てるアイテムとして活躍していく事だろう。

写真1枚目:いかにも寝台車然としたスタイルのマロネ41。
旧客の寝台車といえばこれを思い出す人も多いのではなかろうか。大きなドア窓とキノコ状の妻板も特徴的だ。

写真2枚目:手前側は男性用トイレと洗面所である。緑色の仕切りが目立つ。

写真3枚目:女性用洗面所はこちら側。広いスペースが取られているのが判る。

マロネ41を組み立てる。

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前回紹介したマロネ48と一緒にマロネ41のキットも買ってきて組み立てた。

マロネ41について軽く解説すると、昭和25年に進駐軍の要請により一等寝台車マイネ41として製造された客車で、寝台は鋼製の一等寝台としては初の全室プルマン式となっている。
冷房装置を最初から装備しているため、現代の寝台車の様な円柱状の高屋根が特徴である。
また、寝台車としては初めて1200mm幅の広い窓を採用し、従来の寝台車よりスッキリした外観になっている。

さて、マロネ41は時代によって細く形態をかえているが、今回組むのは比較的原形に近い昭和30年前後である。
この時代のマロネ41は東海道夜行中心に活躍しており、再現に必要な編成も多い。

さて、キットは屋根折り曲げ済みの一体型ボディーとなっていて、例によって雨樋は別に貼る方式。
雨樋はいままで板の端を合わせてクリップで位置決めしていたが、その方法が使えない。つまり、シビアな位置決めをする必要がある事を意味する。
しかしながら、瞬間接着剤は文字通り瞬時に固まってしまうので位置決めは不可能に近い。やや先行で組んだマロネ48で痛い目にあったばかりである。
そこでどうしたものかと悩んでいたら、「黒い瞬間接着剤」に行き着いた。
これは硬化開始が従来の接着剤並の余裕時間があり、硬化後には瞬間接着剤並の接着強度があるすぐれもの。
しかも可塑性が高いので食み出しても削るのが楽で、はがし液でも綺麗に拭き取れるすぐれものだ。
早速雨樋張りに使ってみたが、従来より遥かに楽に取り付けることができた。
少々高価たがメリットは絶大だ。
さらに嬉しいのが、位置決めをできるので少し多めに塗って強度を確保できるのと、粘性があるため流れすぎることもない。
おそらくだが耐衝撃性もあるのではないかと思う。

さて、難関の雨樋をクリアすると、内張りを入れた後例によってドア作りがある。
今回は原形の木製大窓を選択。
キットには晩年のマロネ41 5に付いていたと言う木製高窓パーツも付いている。

マロネ41は車体側面に縦樋があるのも特徴。
デッキ側はキノコの傘になる部分に縦樋が斜めに浮いて走っているが、キットではそれもきちんと表現している。
こればかりはプラにはできない芸当だろう。無論、慎重な折り曲げ作業が必要である。

ドアを差し込んで真鍮製の妻板を車体に接着すれば箱のできあがり。
瞬間接着剤がはみ出した部分は接着剤はがしを使って拭き取ってやる。
これが普通の瞬間接着剤だとガム状になってなかなかとれないのだが、「黒い瞬間接着剤」はスッキリと取れてくれる。
これは本当に助かる。

お次は床下の組み立てだ。

マロネ41は床板も真鍮製である。
折り曲げて淵を作り、床下機器を接着する。
床下機器はプラ製のものと真鍮製のものがあり、電池箱と冷房装置、車軸発電機は真鍮製になっている。
また、ボルスタも真鍮製パーツを畳んで取り付ける形となっている。
通常は床下はさほど手間と言う訳でもないのだが、これは結構手間がかかる。

ここまで組み上がったら今度は塗装だ。

まずはプライマーを塗り、そのつぎはサーフェイサーを吹く。

その後はまず車体をマスキングして屋根を塗る。
空調蓋を塗り分けるため、いったんダーググレーを塗った後、空調蓋以外をマスキングしてネズミ色1号で空調蓋を塗装。

あとはそのまま空調蓋をマスキングして今度は車体の塗装である。
いつもどおりハワイアンブルーを塗った後、1mm幅のマスキングテープで帯のマスキングを行い、ブドウ色2号を吹く。
じっくり乾かした後にゆっくりとマスキングテープを剥せば、いよいよ客車らしい風貌になる。
ちなみに、メタルプライマーが不十分だったせいか、屋根の一部の塗装がはがれてしまった。
メタルプライマーは透明なので、十分に塗れたかどうか判りにくい。
後でブドウ色の部分もはがれてタッチアップするハメになったので、ちゃんと塗れたと思っても手抜きをせずに二度塗りしたほうが良さそうだ。

ちなみに先行着手ながら余分な接着剤剥がしに時間がかかり、塗装は後になったマロネ48ではこの反省を行かして二度塗りを行ったおかげか、塗装の剥がれは発生していない。

床下はプライマーの後黒で塗装である。

デッキ仕切りは構造上スプレーにするとマスキングが面倒なため筆塗りである。

塗装が終わったら窓の取り付けだ。
トイレ・洗面所の窓はヤスリを使ってスリガラスとして貼り付け。
マロネ41は窓間隔が非常に広いので、取り付けも楽である。

窓を貼ったら今度はいよいよインレタを付けてる。
二等表記と所属表記はレボリューションファクトリー製。他はグリーンマックス製のものを組み合わせて使う。
あとは床板に台車を付けてやればこれでキットとしては完成である。

が、それで終わらないのが私流。ここからお楽しみの内装作りだ。
キングスホビーの大形クロスシートを使うのだが、説明書に椅子は2.2mm嵩上げする旨書いてある。
そこで、2mmのプラ角棒に0.3mmのプラシートを貼って椅子板を作り、その上にいつもの要領で椅子や仕切りを乗せて行く。
マロネ41は昼間には区画の仕切り板が座席に収納される構造になっているが、寝台車らしい雰囲気を出すためプラ板で仕切り板を作る事にした。
仕切り板は薄緑色に塗られるので結構目立ち、視覚効果もバッチリである。
他の仕切り類も薄緑に塗装する。
椅子は赤2号とした。
ロングシート状の喫煙室座席と給仕室の座席は三等カラーの緑で塗るが、実際の色は不明である。

客室仕切りと区分室仕切りはいつもの方法で作製。これが一番手間の掛かる作業だ。
給仕室にはドア横に小さな棚があるのでそれも作ってみた。

あとはそれぞれを現物の窓配置に合わせて椅子板に接着。
内装を入れると模型の客車が生き生きして来る様に感じるから面白い。

という訳で、晴れて完成である。

マロネ48に比べたらずいぶんあっさりと完成した様に思える。
接着剤もそうだが、元々キット自体もマロネ48に比べれば単純な構成と言うこともあろう。

とにかく楽しみな車両が増えたことには間違いない。


写真1枚目:組み立て中のマロネ41。
内張りを入れただけの状態である。一体型ボディーというのがよく判る。

写真2枚目:外装が終わった状態。
車内はガランドウだ。
写真3枚目:完成した姿。車内仕切りが大きな窓からよく見える。

夜汽車の客車たち(その32)

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久々の今回は鋼製の一等寝台車のトップバッターであるマロネ48について書いてみる。

1.マロネ48の概要
マロネ48は昭和3年に一等寝台車マイネ48120形として誕生した寝台車である。
全長は20m、明かり取り窓を屋根に持つ二重屋根であり、車端には絞りがある。
鋼製客車としては最初のグループであるため木造客車の設計思想を色濃く残しており、台枠は頑丈な魚腹構造。車体は溶接技術が未発達であるため窓柱毎に縦リベットが並び、さらに車体裾とシル・ヘッダーにもリベットが並ぶ鎧武者の様な出立ちである。
窓の天地幅は660mmで、台車は釣合い梁式で乗り心地の良いとされる三軸ボギー台車のTR-71を履く。
以上から趣味的分類上はオハ31系に属している。

室内は全区分室となっていて、4人用区分室が3つ、2人用区分室が4つの定員20名となっている。
この他にデッキとトイレが2箇所づつあり、さらに給仕室・喫煙室・物置があるが、洗面所はない。
これは、昭和初期の時代背景として、一等寝台車自体が最上級グレードの車両であり、諸侯や華族、代議士、上級将校、企業の役員などの上流層に事実上限られていた事による。
そしてこれら一等客のTPOとして、公の場で洗面等の私的な姿を見せるのははしたないと言うのがあり、一等区分室内には必ず折畳み式の洗面台が用意されていたのである。

なお、需要の関係で一等寝台車が使用できる線区や列車が限られることから、総勢は僅か8両だった。

さて、登場後は東京~神戸間の急行15,16列車や上野~青森の北海道連絡急行201,202列車に使用された。

誕生後僅か約半年の昭和3年10月に鋼製客車に対応するための称号改正があり、マイネ48120からマイネ37100に形式が変更されている。
また、ほぼ同時期から昭和6年頃にかけてブレーキが真空式からAV式に変わり、これに伴い屋根にあった水タンクを床下に移設し、圧縮空気で揚水するように改められた。

昭和9年に一等車を東海道・山陽本線以外不連結としたことから、優等車両ばかりの連結で名士列車の異名を持つ東京~神戸間の一二等夜行急行17,18列車にメインで使用されるようになった他、特別急行「富士」に増結車として使用されたりした様だ。
なお、この他に東京~下関の急行7,8列車にも使用したとの説もある。

さて、鋼製客車の形式増加で番号に余裕がなくなったことから、昭和16年にはまたもや称号改正があり、マイネ37に名称変更している。

この頃から世の中が戦時体制となり、輸送力強化のため優等車両の運行を順次とりやめ三等車への改造も行われるなか、マイネ37も全車が格下げ対象となりマイネ37 2,4が改造されてマハ37となったものの、他については結局改造を行うことなく戦争が終了した。
結局6両が戦火を逃れて一等寝台車のまま生き延びたのである。
当然の事ながら全車が進駐軍に接収されて、軍の将校等の輸送に使われる事になった。
接収時代の動きについて詳細は不明であるが、その後の特殊列車1005,1006列車に使われている事から、おそらく東京~下関間(後に佐世保まで延長)の軍専用列車「Allied limited(連合軍特急)」に使ったものと推測する。

さて、講話条約により接収された客車は順次返還されるが、マイネ37の返還時期は不明である。
上でも書いたとおり、「Allied limited」が昭和27年10月から日本人も限定的ながら使用できる特殊列車1005,1006列車になると同時に使用されていることから、それに合わせて返還されたと推測している。

さて、昭和16年の称号改正以降、形式番号の下一桁が7~9については三軸ボギー車を割り当てていたが、戦後に技術の進展で二軸ボギー台車でも三軸ボギー台車並の乗り心地が確保できる様になり三軸ボギー車が打ち止めとなった。その一方で二軸ボギー車は増加の一途であったことから、昭和28年に形式の下一桁の7を二軸ボギー車に明け渡すための称号改正が行われた。
マイネ37も改形式の対象となり、マイネ29に変更された。
これで誕生してから大きな変更もなく3度の形式変更を経験したことになる。

昭和29年10月に特殊列車1005,1006列車は列車番号そのままに、日本人が制限なく利用できる急行「早鞆」となり、運転区間も博多までとなるが、マイネ29は引続き使用された。
ちなみにこの急行「早鞆」は特殊列車の面影を色濃く残した豪華編成で、一等車と二等車だけで構成されていた。まるで戦前の名士列車の様である。

さて、三等車の6倍の運賃とそれに加えた料金が必要な一等寝台車の利用率は高価故に思わしくない一方で、徐々に所得水準が上がってきたこともあり二等寝台車は大盛況だった。そこで、昭和30年7月に一等寝台を廃止し、設備そのままに二等寝台へ編入することになった。つまり値下げなのだが、客車は設備そのままに格下げされ、最高ステータスを誇るイネからロネになり、マイネ29からマロネ48と生涯四度目の改形式となった。
なお、旧一等寝台のうち、洗面台を持つ区分室寝台を二等A寝台、開放式で冷房付きのものを二等B寝台、洗面台のない区分室式を含めたその他を二等C寝台とランクされ、設備の差による「格の違い」は保持されることになった。

さて、マロネ48になった時点で「早鞆」から外れ、定期運用がなくなったものの、昭和30年冬頃からマロネ40の改造のため代走として「早鞆」に復帰している。
余談だが、この時の「早鞆」は三等車も連結した名実共に普通の急行列車になっていたが、二等寝台が4両連結される等、軍専用列車の面影は残していた。
冷房使用シーズン前に本来のマロネ40に戻って運用がなくなったが、昭和31年11月の改正で急行「早鞆」が経由変更して「筑紫」になったと同時に、今度は定期運用として復帰。
車齢28年にして第一線へ復帰である。
戦後製の冷房車マロネ40やマロネ41や、新型の軽量客車10系に伍して「筑紫」運用を約2年勤めたが、昭和33年10月改正で永年働いた「Allied limited」をルーツとする「早鞆」→「筑紫」から外れ、東京~大阪間の急行「月光」に使用された。
ある意味戦前の急行15,16列車時代の原点に戻ったと言えるだろうか。
華の東海道夜行で老骨に鞭を振って頑張っていたが、約半年後の昭和34年4月に、新製された新型のオロネ10により「彗星」から追い出されたマロネ41に道を譲り、ついに定期運用から退く事になった。
なお、この間に当時大評判の九州特急「平和」にもイレギュラーながらマロネ40の代走として登板したのは特筆すべきであろう。
特急列車とは縁の薄い同形式だが、こんな晴れ舞台もあったのである。

さて、定期運用を失ったマロネ48は団体・臨時用として余生を過ごすことになった。

昭和35年6月の二等級制移行に伴い、名目上一等寝台車に復帰するが、形式はそのままだった。

誕生から住み慣れた品川客車区の片隅で後輩達の活躍を見守っていたが、いよいよ昭和36年に廃車が始まり、昭和37年9月までに6両全てが廃車となって、当時の優等用客車としては長寿の34年間の歴史に幕を閉じたのだった。
ほとんど急行用ながらも東海道の上級グレード車として長く君臨し、その歴史は輝かしいものだったと言って良いだろう。

余談だが、マハ37に改造された2両のうち1両は戦災で廃車になったが、もう一両は称号改正でマハ29となり普通列車で活躍。晩年は清水港線で過ごし、マロネ48より遅い昭和39年まで生き延びたそうだ。


2.我が家のマロネ48
我が家のマロネ48はキングスホビー製のキットを組み立てたものである。詳しくは組み立て記事を見ていただくとして、天地幅の狭い窓、ビッシリ並ぶリベットなど、威厳に満ちたスタイルをよく表現している。
組み立て時にミスして通路側の側板に歪みがでてしまったのが残念。
(車齢27年以上たった姿なのであるいみリアルとも言えるがw)

表記・帯は昭和30年7月から昭和34年までの様式で、本来ブドウ色1号のところを例によってブドウ色2号で代用している。

ナンバーはマロネ48のラストとなる6番とした。
マロネ48は昭和20年代後半から30年代頭にかけてドアを交換しており、半数の2,3,6はマロネ40に使用されたような桟のない高窓のドアとなっている。

なお、実車は昭和20年代の入場の際に車体裾のリベットが消えているが、キットは原形のままでリベットが存在している。削ることも考えたが、上手い工法が思い付かなかったため見送った。

室内はキット附属の区分室仕切りと自作の寝台の組み合わせでマロネ48の特徴である区分室を再現。木製の仕切りが車内全体に渡り、通路側から見ると茶色の仕切りがチラチラと見えるのがヨーロッパの寝台車の様な風情をだしている。

さて、我が家のマロネ48は実物同様、九州急行の「早鞆」「筑紫」、東海道夜行の「月光」に使用する予定。
もちろん夜行特急「平和」のイレギュラー編成も再現してみたいと思う。

余談ながら、元々このマロネ48は購入リストでも優先順位が低かったのだが、増備の結果「筑紫」及び「月光」の編成がこのマロネ48を入れることで組む事ができる様になったことから大幅に順位を繰り上げる事になったものだ。それに、オール二等A寝台というのは、やはり漢のロマンを感じるのである。

余談たが、マロネ48は昭和3年製。実車レベル見ると我が家では昭和5年製のマロネフ49を抜いて最長老である。


3.マロネ48つれづれ
マロネ48を初めて知ったのは、旧一等寝台の動きについて解説したサイトである。
車齢が高いにもかかわらず定期列車、しかも東京~博多間の列車に現役復帰を果たし、その後3年半も活躍したという文章を見て興味が湧いたのだが、その時点では写真等を見た訳ではなかった。
その後とあるサイトでマロネ48の写真を見るのだが、その渋さに思わず見入ってしまった。
それまでオハ31系と言うと、津軽鉄道のストーブ列車や小振りな車体でC11等に牽かれたローカル用の客車と言う、まさにオハ31自体の印象が非常に強かったのだが、20mの大形車体に3軸ボギー台車を履き、おびただしいリベットに小さな窓が疎らに並ぶ姿は威厳に満ちてかつ装甲車のような物々しい雰囲気があり、何とも形容しがたい強いインパクトだったのである。
ただ、マロネ49等のスハ32系グループに比べてやはり窓の天地幅が小さくどこか垢抜けない雰囲気で、さほど惚れ込んだという訳でもなかった。
しかしながら、これが見れば見るほど味わいがある様に感じるから不思議なもので、スハ32系グループほど洗練されていないが、かえってその武骨な感じが素晴らしく思える様になった。

我が家には全室区分室の旧一等寝台車としてはマロネフ49が既に存在するが、製造年が2年違うだけでコンセプトが色々異なっていて、その対比もなかなか面白い。
通路側の窓はマロネフ49は区分室に合わせて3連窓が並び、明るい雰囲気だが、マロネ48は2連窓がほぼ等間隔でならび、ぱっと見るとツーリスト式寝台車のマロネ29のような雰囲気だ。
そんな所もこの客車を見る上での楽しさである。
ちなみにマロネフ49はかつて名士列車で隣りに連結された仲である。

これからはマロネフ49やマロネ40と共に我が家の客車列車のフラグシップとして活躍することになろう。

次回は一等寝台の最後を飾ったマロネ41について書く予定です。

写真1枚目:通路側から見たマロネ48。
茶色の仕切りが窓越しによく見える。
2連窓がゆったり並び、マロネ29等に似た雰囲気である。

写真2枚目:逆サイドからみた通路側。こちらは二人用区分室が並び、やや窓配置が不規則になっている。
車内の仕切りの窓越しに緑色のシートモケットや白のヘッドカバーが見える。

写真3枚目:客室側のマロネ48。不規則に並ぶ窓が最高級グレードである区分室式寝台車の証しである。
オハ31系の特徴であるおびただしい数のリベットに小さな窓が、こちらのサイドだとより強調されて見える。

マロネ48を組み立てる

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財政事情も少し良くなってきたことから、模型の組み立てを再開。
キングスホビー製のマロネ48を組み立ててみることにした。

ここでマロネ48について軽く解説すると、オハ31系に属する昭和3年製の寝台車で、2人用区分室4つと4人用の区分室3つを持つ二等A寝台車である。
各区分室には折畳み式の洗面台が備え付けられていた。

一等寝台車マイネ48120として誕生した後、3回の称号改正(マイネ48120→マイネ37100→マイネ37→マイネ29)と一等寝台廃止による格下げで、4回名前が変わった後にマロネ48となっている。
激動の時代を生き抜いた証拠とも言えようか。

戦前製の旧一等寝台車としては長寿で、昭和34年まで定期運用を持ち、昭和37年まで存在していた。

さて、キングスホビー製のキットはマロネ38を組んで以来だが、写真1枚目を見てのとおり、金属パーツの多さに圧倒されるのは相変わらずである。
しかし、このパーツの多さが最終的にプラ完成品を上回るディテールを再現するのだ。
無論、その域に達するにはそれなりの組み立てスキルは要求される。

まず最初に、車体に雨樋を張り付ける作業から始まる。
真鍮製で柔らかいこともあり、ステンレス製のレボリューションファクトリー製よりも簡単に曲がってしまい、位置決めが難しい。
本来ならばハンダでやるべき作業を、強度上の都合でシビアな瞬間接着剤を使わねばならないためだ。だから余計にシビアな作業となる。
久々の作業のためかなり四苦八苦したものの、なんとか接着できた。
もっとも、よく見ないと判らないが、微妙に雨樋が下がっている箇所があり、やや不満が残る仕上がりとなった。
今後をかんがえると、硬化時間に余裕のある瞬間接着剤の導入を検討したほうが良さそうだ。

つぎは側面板の貼り合わせ。
ハンダ前提であることもあり、接着剤を流し込む箇所が少ない。
このあたりが接着剤前提のレボリューションファクトリー製キットとの大きな違いだ。
そしてここで大失敗をしてしまう。
うっかり内板と外板がずれた状態で貼り合わせてしまったのだ。
大急ぎでカッターを突っ込んで剥したが、当然ながら板が曲がってしまった。
泣きたくなった。

しかし、オハ31系だった事が幸いした。
窓柱が太いおかげで窓が歪むことなくはがすことができ、接着剤剥しを兼ねて板を平らなところでこすった結果、目立たない程度まで復旧させることに成功したのである。(といっても歪みは残ってしまったが。)

高価なキットが無駄にならず、ホッとした。

反対側の側板は慎重にやる。
こちらは大きな失敗もなく接着できた。

ここまでできるととりあえず第一関門を超えたというところだ。

次にデッキ仕切り板を接着する。コンバージョンキットであれば自作するパーツだが、キングスのキットには最初から付いているのだ。
その次はドアの組み立て。
マロネ48のキットには2種類のドアパーツが付属しており、ノーマルな窓桟があり2段窓になった木製ドアと、マロネ40等の主に優等車に見られた桟のない高窓タイプの木製ドアだ。
マロネ48はこの高窓ドアに交換されたものが多く、今回は木製高窓ドアになったラストナンバーのマロネ48 6にする予定なのでこの高窓を利用することにする。

ドアはステップと一体になっていて、さらにドア自体も薄いパーツを折畳んで作る構成になっている。
これにより木製ドアの窪みを表現している訳だが、なるほどモールドでの表現にくらべて実感的である。
そのため、パーツの切り離しには慎重さが必要になる。

下部を折り曲げてステップを作り、さらに折畳んでドアになると、思わずニヤリとしたくディテールになる。

妻板はプラ製で、幌釣りが別パーツになっている。
これが非常に細くて接着が難しい。
ピンセットでも思う様につまめず、取付けには苦労した。
あとはドアを仕切り板に差し込み、妻板をガイドに沿って接着。

これでだいぶ客車らしくなってきた。

お次は屋根。
オハ31系は鋼製最初期の客車で、屋根は室内灯が無かった頃の名残が残る、明かり取り窓が付いた二重屋根だ。(なお、オハ31系自体は最初から室内灯装備である。)

さて、二重屋根の車両を自分で組み立てるのは初めてである。
屋根は肩の低屋根部分と中央の高屋根部分のパーツに分かれており、さらにモニタ部分は金属パーツとなっている。
二つのプラ部品を合わせた後、金属のモニタ部分をはめ込む様になっている。金属部品にはベンチレータの差し込み穴が付いているのだが、実車は移設されたものや撤去されたものが存在する。
今回組む予定のマロネ48も多分に漏れずで、マロネ48 6に関しては2箇所ほど移設されている。
説明書には別キットに付いている塞ぎ用パーツをハメてハンダ付けするように書いてあったが、高価なキットでもあり、それはあんまりではないだろうか。
ベンチレータはプラ用接着剤が使えるのだから、位置決めも苦労することはないので取付け穴自体要らないのではないかと思う。

とりあえず自分は瞬間接着剤を固める事で塞いでみたが、これが上手くいってるかどうかは塗装してみないと判らない。
ベンチレータはスハ32系タイプの大きな物に交換されていたとの事で、グリーンマックスの半ガラベンを使ってみた。が、ややオーバースケールになってしまった様だ。
次回以降は大人しくキングスホビー製を買った方が良さそうだ。

屋根の次は床下。
これはグリーンマックスのキットと似た様な要領だが、オハ31系らしく魚腹式台枠パーツが付いているのが特徴だ。
これを付けてやると、なるほど昔の客車らしい魅惑的な床下の表情になる。

さて、いつもはここで内装作りになるが、今回は塗装を先行することに。

サンポールで酸洗いをした後、メタルプライマーを塗り、さらにさーフェイサーを吹いて下地処理とする。
今回は床下・屋根とも真鍮製部品があるため一緒に処理した他、附属の真鍮製内装パーツもついでに行う。

この後は屋根はダーググレーで単色塗りだ。
これは実車のマロネ48がほぼ単色となっているからである。

他はいつものように、床下は黒で塗装。
車体は先にハワイアンブルーを吹いた後にマスキングをしてブドウ色2号を吹く。
正確には昭和34年まではブドウ色1号だが、代用である。

レタリングは車番はグリーンマックスのものを組み合わせて使用。2等表記と大きめの「東シナ」はレボリューションファクトリー製だ。

床板にはキングスホビー製の台車TR-71を付ける。TR-71にはカプラーと車軸が付いていないので、車軸はキングスホビーの店で売っていたGM台車からのバラし車軸。カプラーは103系をカトーカプラに交換して捻出した物を使用。

デッキ仕切りは構造上スプレー困難なため、クリーム1号で筆塗り。
塗装が乾いたらいよいよ窓を貼る。
曇りガラスはいつもどおりヤスリで作り、ゴム系接着剤で貼り付け。普通のガラスは窓柱が太いおかげで十分な接着強度が確保できそうだ。
さて、先にも書いたとおりマロネ48は二重屋根である。屋根に明かり取り窓がある訳だが、説明書には特に窓セルを貼る記述がない。
公式サイト上でも完成例を見ると特に貼っていない様だが実物にはガラスが存在する。
折角窓があいているので、透明プラ板を幅約2mmに切り出し、ゴム系接着剤で貼り付ける。

ここまでできると外装は終わり。とりあえず運転可能な状態になった。

お次はお楽しみの内装作りだ。
マロネ48の特徴は何と言っても全室区分室であることだ。
車体全体にかかる木製の区分室仕切りは最高級グレードならではの風格がある。
キングスホビーのキットにはそれを再現するためのパーツが最初から付いている。
この時代の仕切りは扉の他に窓があり、さらに額縁のような出っ張りがある。
これをプラ板で自作しようと思ったらかなり大変なことで、本当にありがたい。

寝台パーツも発売しているのだが、旧仕様の床板に合わせてあるため削る必要があり、かなり面倒な上、2セット必要になるので、経費節減も兼ねて自作をすることにした。
0.3mm厚のプラ板からパテーションを切りだし、1.2mm厚プラ板を切り出して下段寝台兼座席を作る。さらに、0.5mm厚と0.3mm厚のプラ板を重ねて背ずりを作る。
ちなみにこの背ずりは夜に上段寝台となる。
喫煙室座席には余っていた10系用寝台を使い、給仕室座席はいつもの如くプラ板自作だ。
仕切りの都合上、椅子板は3分割。
喫煙室・4人用区分室×3・2人用区分室で一つ。真鍮製仕切りで仕切られる2人用区分室×2で一つ。2人用区分室と給仕室で一つである。
真鍮製の仕切りと、自作寝台をウッドブラウンで塗り、さらに寝台のモケットはオリーブグリーンで塗る。これにはクレオスのオリーブドラブを使用してみた。
実際の色調が判らないので想像である。
喫煙室座席と給仕室座席はいつもどおり緑2号を筆塗りである
これらを椅子板に貼り付けて、床板に両面テープで固定するとひとまず形となる。

とりあえず現状はここまで。

備品室の仕切りと給仕室の棚を作り、寝台にヘッドカバーの白を入れれば完成だ。

TR50系台車

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1959~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2005~01001.JPG

軽量客車用として登場した軸バネ式台車。
枕バネは従来の板バネに代わりコイルバネとなった。

基本形式となるTR50は10系座席車とナハネ10(→ナハネフ10→オハネフ12)、ナハネ11(→オハネ12)、ナハネフ11(→オハネフ13)に使用され、軽量で保守性もよいが、時代背景もあってバネのセッティングが極端な条件(乗車率200%)をターゲットとしたため、乗り心地はあまり良好とは言えなかった様だ。

このTR50を鋼体化客車(60系)の優等化による台車振替え用としたのがTR52で、オロ61(→スロ62)、オハニ36に使用されている。


また、TR50の枕バネを空気バネとし、20系客車用にしたのがTR55。
さらにTR55のセッティングを変えてオロネ10用としたのがTR60である。

なお、TR50とTR52は外観上の差がほとんどないため、模型ではTR52をTR50で代用れている。

なお、12系以降に使用されているTR217や50系客車に使われてるTR230はTR50系の発展形で、形もよく似ている。


写真1枚目:TR52
写真2枚目:TR60