夜汽車の汽笛への憧情 -145ページ目

TR23(TR34)台車

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1955~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1956~02001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1956~01001.JPG

昭和初期から戦後にかけて製造されたスハ32系・オハ35系客車に広く用いられた、ペンシルバニア型の軸バネ式台車。
枕バネには従来どおり板バネを使っている。
製造期間が長期に渡ったため様々なタイプがあるが、初期のものは軸受けが平軸受け、後期のものはコロ軸受けとなっており、戦後に軸受けの形状が改良されたTR34となっている。
また改造も多く、優等車両(二等車や寝台車など)用に揺れ枕釣りの長さを延長して乗り心地改善したものや、軸受けを平軸受けからコロ軸受けに変更したものもある。

比較的軽量で保守も容易であることから長く使用され、重量ランクを下げるためにこの台車を履いた例も存在する。


写真1枚目:戦前型オハ35が履くTR23。オリジナルの平軸受けタイプ。

写真2枚目:オハ35戦後型が履くTR34。軸受けがコロ軸受けになっている。

写真3枚目:昭和30年代に改造してコロ軸受けとなったTR23H。技術の進展によりTR34よりコンパクトなものとなった。写真はオハ47のもの。

TR73台車

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2000~01001.JPG

昭和初期に製造された優等車両向けに使用されたペンシルバニア型の軸バネ式3軸ボギー台車である。

スハ32系とオハ35系の優等車両(御料車、供奉車、一等車、一等寝台車、二等寝台車、食堂車および上記との合造車)に使用された。
軸重を減らすことによる乗り心地改善のための3軸構造だが、戦後になり技術の進展で2軸でも同等以上の乗り心地を確保できるようになったことから、このTR73が最後の3軸台車となっている。

なお、お召し列車用の客車には軸受けをコロ軸受けに改造したものが存在する。

写真はマロネ29が履くTR73。

夜汽車の客車たち(その27)

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1654~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1649~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1655~01001.JPG

今回は急行用の特別二等車スロ51について書いてみる。

1.スロ51概要
スロ51は昭和25年に進駐軍の命令で誕生した特別二等車の好評を受けて、増備用として同年中に登場した特別二等車である。
車体は完全切妻構造で、台車はTR40Bを履く。
スロ60等と同じく縦の雨樋は車体側面の車端に付く。
室内はデッキが一ヵ所で、給仕室と荷物保管室があり、デッキ横とデッキのない方の車端にトイレと洗面所がそれぞれ付いている。
客室にはリクライニングシートが並ぶ。シートピッチは急行用ということで定員を稼ぐため1100mmとし、荷物保管室と給仕室を狭くして客室面積を稼ぐ事で13列並べて定員は52名となった。
このため、側面の窓は車体強度を確保するため1000mm幅は使えず、並二等車のオロ35等と同様に700mm幅の狭窓が並ぶことになった。
なお、ドアにはおそらく初となる鋼板プレスドアを用いている。
ドアの鴨居部分には等級表示灯が付いているが、スロ60と違いドア幅いっぱいのサイズとなった。
以上から、スハ43より先の登場であるが、ほぼ同様の車体構造であることから趣味的分類上スハ43系にカテゴリされている。
なお、普通急行に原則として1両特別二等車を連結する方針だったことから、総勢60両となった。
このうち12両は北海道対応(二重窓化など)のためスロ52とされた。

さて、スロ51は登場後四国を除く全国の急行列車で幅広く使用された。
登場翌年の昭和26年にはシートピッチを広げて1000mm幅の窓に改良されたスロ53が登場しており、結局昭和25年製の60両で打ち止めになっている。
スロ53やさらにその改良版であるスロ54に東海道夜行はとって代わられて、主に九州急行や山陽急行、東北・上越方面で使用された。
昭和32年から昭和33年にかけて、後発のスロ54やナロ10に比べて設備が見劣りすることから、近代化改造が行われた。
主な改造内容は、
・窓のアルミサッシ化
・ドアの交換(プレスドアから1枚鋼板ドアへ交換。)
・室内の塗装変更(ベージュ系から薄緑色へ)
である。

なお、これにあわせて縦雨樋を車体側面から一般的な妻面へ移動している。

昭和33年10月になると、ナロ10の増備によりスロ54に余裕がでたこともあり、一部の列車で自由席二等車として転換クロスシートの並二等車に代わって使われる様になる。
同時に従来の特別二等車は二等車指定席となり、事実上特別二等制度が廃止となった。
なお、名称としての特別二等車が廃止になったのは昭和34年6月である。
この時塗装がぶどう色1号から少し明るいぶどう色2号となり、帯からローマ数字の等級表示が消えている。

その後、オハ61の改造でシートピッチが広いオロ61が大量増備されると、シートピッチの狭いスロ51は指定席二等車の座を追われ、準急列車や長距離普通列車にも使用されるようになる。
昭和35年6月には三等級制度が廃止となり、二等級制となったのに伴い、一等車を名乗る様になった。
昭和36年7月にはまたまた塗装規定が代わり、帯の色が淡緑色に変わっている。
オロ61が増えるに従って比較的重いスロ51はスロ54と共に勾配の多い東北地区や上越線の急行からは徐々に撤退し、以降は東京以西で使用されるようになる。

昭和39年から優等列車に使用する車を対象に青15に塗装変更が行われ、スロ51も青に薄緑色の帯に変更される。
昭和41年頃から優等車両を対象に冷房改造が行われる事になったが、既に客車列車自体が減少傾向であったことから冷房改造対象から漏れ、定期列車から外れて団体臨時用となった。
また、スロ52を合わせると31両と約半数がデッキを増設のうえ室内をロングシートとし、通勤型客車オハ41へ格下げ改造された。
また、荷物車のマニ36とマニ37に改造されたものも少数存在する。
また、前後して8両が緩急設備を付けてスロフ51になっている。

残ったものは細々と団体臨時用で生き延びて、昭和44年のモノクラス制度移行後グリーン車となったものの、経年もあって戦列を離れ、昭和47年に消滅。
急行列車の顔役だったスロ51は地味な最期を迎えたのだった。

なお、通勤形に改造されたものは昭和60年まで生き残り、長寿を全うしたようだ。


2.我が家のスロ51
我が家のスロ51はレイルロード社製のキットを組み立てたものである。
細かい事は組み立て記事を見ていただくとして、製品はスロ51の持つ独特の雰囲気をよく再現している。
例によって表記類は昭和34年6月以前としているが、塗料の入手容易性を鑑みて塗装は本来より明るいぶどう色2号である。

番号は早くから地方へ移ったスロ51らしく、マロネロ38と合わせた門ハイの32番である。
実車は昭和32年10月に長崎から移ったもので、時期的に早岐に配置された際には既に近代化改造されていた可能性もある。
導入目的は急行全般であるので、今回はあまり番号にはこだわっていない。九州所属の表記だが、色々な列車に使う事になろう。


3.スロ51つれづれ
スロ51もマロネ29と同じく存在感の薄い客車である。
インターネットで検索してもヒットする件数は少なく、実車の画像ともなると本当に少ない。
無論、模型でもプラ製の完成品などない。
やはり夜行急行の標準的な顔であった事と、優れた後輩(スロ54やオロ61)の影に隠れてしまった事、冷房改造対象から漏れて早々と消えた事が要因だろう。
また、マロネ29と違い一度も特急に使用されていないのもより立場を苦しいものにしている。

しかしながら、小窓がゆったり並ぶ姿は大陸の客車を思わせ、なんとも味わい深いスタイルになっている様に思う。

これは戦前の転換クロスシートの二等車であるオロ35や戦後まもなく登場したオロ41にも言える事である。
もっとも、スロ51はデッキも片側でゆったりしており、オロ35やオロ41より優雅な雰囲気だ。
近代化改造によりアルミサッシ化して、一部は10系のようなサッシ付きドアになっているが、これはまた何とも言えない味わいがある。

同様の近代化改造を受けたスロ60はオロ61のようないでたちとなったが、スロ51は小窓のおかげで全く別の味わいで、シル・ヘッダに挟まれた小窓のクラシカルな雰囲気とアルミサッシによる近代的な雰囲気が新旧混在の趣を一層強く引き立てている様に思う。


さて、上でも書いたとおり、スロ51は特急列車には使用されなかった代わりに普通列車で使用されている。
仮にも元特別二等車であるから、普通列車用としては豪華な車両だったに違いない。
電車で言えば急行用グリーン車を格下げ改造したサロ112やサロ110-400といったところだろう。

スロ51としては四国に行かなかったが、通勤化改造したオハ41は四国にも配置され、スロ51が消滅したのより遥かに後の昭和60年まで残っていたと言うのも、面白いエピソードである。


とまあ、このとおりスロ51は地味な役割に徹した客車だった。

しかしながら、全国に渡って闊歩し、夜汽車の華として重要な役割を担ったのは間違いない。
スロ51は夜汽車を語る上で欠かせないアイテムなのだ。

写真1枚目:狭い窓が並ぶスロ51の公式側。
転換クロスシートを持つ戦前製のオロ35や戦後製のオロ41にも通じるデザインだ。
窓のないスペースは荷物保管室である。
片側デッキなのはさすがに戦後製と言ったところか。

写真2枚目:非公式側に給仕室があるのはスロ60やスロ50と同じレイアウト。給仕室は定員を稼ぐため狭いものとなっているが、この映像からもその様子が見て取れる。
台車は乗り心地の良いウイングバネ式のTR40Bだ。

写真3枚目:同じく700mmの窓が並ぶマロネロ38の二等室とスロ51。
定員重視と言えども、さすがにスロ51は特別二等車だけあって並二等車よりはシートピッチが広いのが判る。

夜汽車の機関車達(その4)

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2132~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2133~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2135~01001.JPG

今回は碓氷峠の名優としてEF63と共に名を馳せたEF62について書いてみる。

1.EF62の概要
EF62は碓氷峠の粘着運転化に伴い、山岳路線向けの本務機として開発された客貨両用の直流電気機関車である。

群馬県の長野県の県境にある碓氷峠は交通の難所であった。
鉄道においても国鉄最急勾配の66.7パーミルが存在する険しい峠道で、アプト式と呼ばれるレールに歯車を噛み合わせる方法で対応していた。
しかしながら、アプト区間は早くから電化していたものの(日本初の電化であり、電化方式は直流600V)、当時の技術レベルにより機関車は非力で、末期のED42型を4重連にしても合計で2040kwにすぎず、そのため連結両数が限られていたことと、戦後になり設備の老朽化が目立ち、輸送上の隘路となっていた。
そこで技術の進展に合わせて粘着運転とし、特殊な機関車を連結することで勾配を克服することになった。
これに対応するため昭和37に碓氷峠専用の特殊な機関車EF63と、EF63と協調して峠を超える機関車としてEF62が誕生した。
電動機はEF60の後期型から使用されているMT52系とし、総出力は2550kw。駆動方式は伝統的な釣り掛け駆動。ギア比は牽引力重視の4.44とした。
これは貨物向けのEF60と同じであり、旅客列車を引く機関車としては定格速度は低いものだが、峠の勾配に対応するためとEF63と同一とすることで協調性を持たせるためである。
碓氷峠に対応するためEF63との協調設備や特殊なブレーキを積む必要があるが、一方で碓氷峠以外の区間でも使うために軸重を制限する必要があるため、車体には軽量化の工夫がなされている。
重連運転を行うため車体正面には貫通扉が付き、発電ブレーキに耐えるための大型抵抗器を擁することから車体側面には大きなルーバーが設けられた。
台車はEF60以降の新型電機には珍しい3軸ボギー台車で、これも2軸ボギー台車を3つ取付けるより軽量化できるためのものである。
屋根にも軽量化のための工夫がされており、全面的にFRPを使用。強度の要るパンタ部分は金属の梁を渡してその上にパンタを載せている。
また、客車列車を引く際には暖房設備が必要になるが、蒸気暖房用のボイラと水は重量がかさむため、電動発電機を搭載して、直流用電気機関車としては初めて東北地区の客車で使っている電気暖房を使える様にした。このため、碓氷峠を通過する客車は電気暖房を装備している。
なお、電気暖房を装備する客貨両用機は貨物専用に電気暖房を持たない車両が存在する事が多いが、EF62は全機が電気暖房装置付きとなっている。
塗装は当初当時標準のぶどう色だったが、昭和41年以降は新型電機標準となる青にクリームの警戒帯となった。

こうして誕生したEF62はEF63と共に成功をおさめ、昭和44年まで改良を加えながら製造され、総勢54機となった。

なお、アプト式から粘着式とすることで、従来横川~軽井沢間は40分かかっていたのが、複線化の効果もあって軽井沢方向で17分、横川方向で24分と大幅に短縮された他、連結できる客車も積車状態で400tまでとなり、これまでと倍以上の輸送力となった。

さて、登場後は増加する輸送需要に合わせて数を増やしながら活躍したが、既に動力分散化は始まったおり、荷物輸送のため数本あった客車の普通列車と夜行列車以外はほぼ貨物列車に使用されている。

動力分散化の進展で旅客列車としての仕事は減ったものの、貨物列車用には幅広く活躍し、直江津から新潟まで足を延ばすものもいた。
しかしながら、いくら輸送力が増えたとはいえ、特殊な条件下で連結できる両数は限られており(通常電車8両、客車は10両程度。EF63と協調運転できる電車に限り12両)、首都圏から日本海方向への貨物輸送は余裕がある上越線へシフトし、長野への貨物輸送も中央線経由にとって代られた。
また、貨物列車自体の輸送量も減ったため、昭和58年頃には碓氷峠経由の貨物は廃止となり、EF62は余剰となった。
丁度その頃東海道本線で荷物列車を担当していたEF58が老朽化で故障が目立つ様になり、客車用の暖房設備を持つ余剰になっていたEF62に白羽の矢が立った。
そこで昭和59年にEF62のうち約半数の26両が信越線を離れ、下関に転属してEF58の代わりに東海道・山陽本線で荷物列車を引く事になった。

しかしながら、前回のEF58の稿で書いたとおり、EF58は高速向けの機関車であり、それに合わせて100km/h近くで連続走行するダイヤが組まれていたが、EF62は山岳用に特殊な仕様とした機関車で、牽引力重視のセッティングでありため定格速度は39km/hにすぎなかった。
設計速度こそ最高100km/hだったが、不向きな高速連続走行で故障が頻発し、暖房設備を持たないEF65や戦列を離れたはずのEF58の救援を仰ぐ始末だった。
もっとも、この頃には宅急便の隆盛で既に国鉄の荷物輸送も衰退しており、元からショートリリーフを見越していた感がある。
案の定僅か2年後の昭和61年11月に荷物輸送は廃止となり、不向きな高速運用を強いられた山男達はそのまま永遠に安眠することになったのだった。

さて、残ったEF62は主にイベント列車や臨時列車で最後の活躍をすることになった。
上越新幹線が開通した昭和57年以来信越線経由になっていた夜行急行の「能登」も担当し、曲がりなりにも定期運用を持っていたが、「妙高」が169系、「能登」が489系電車にとって代られるといよいよ肩身の狭い身分になっていった。
そして平成5年にはついに長野新幹線開通により碓氷峠は廃線となり、存在意義をなくしたEF62は盟友のEF63を廃車回送した後にひっそりと後を追い、在来線の碓氷峠と共に過去の世界に去って行ったのだった。

2.我が家のEF62
我が家のEF62はTOMIX製の古い製品で、オークションで入手したものである。
形態は後期型で、番号は45号機を選択した。
古い製品故に駆動方式がクラシカルなウォームギアで、走行音は近年の機関車より大きいが、動力は安定していてよく走る。
導入目的は碓氷峠を超えた夜行急行の「越前」と「妙高」を牽引するためだが、正直に言えばそのゴツいスタイルに惚れたというのが正しい。
なお、45号機は篠ノ井に配属され、下関へ行くこと無く信越線で一生を終えている。
我が家ではとりあえず今は「越前」「妙高」を引いているが、そのうち14系の「能登」や東海道の荷物列車も引かせてみたいと思っている。

3.EF62つれづれ
自分にとってEF62の印象深い姿は東海道の荷物列車だ。
厳ついスタイルの機関車が高速でマニ44やスニ40などの青や銀の荷物車を引いてカッ飛んで行く姿は豪快で、マニ44の特徴的なくぐり戸と共に強烈な印象として残っている。
その頃は知識が電車に偏っていたので、不向きな運用で身を削っているとは知らず、無邪気にカッコイイと思うだけだった。

その後EF63と3重連を組む写真を見たが、やはりそちらの方がカッコイイと思ったのは言うまでもない。

さて、EF62はそれほど夜汽車は多くは担当していないが、信越線の夜行列車を細く長く担当していた。
中でも特徴的なのが「妙高」と「越前」だろう。
碓氷峠を超えるため、「妙高」は8両、「越前」は10両とコンパクトな編成ながら、グリーン車(越前)やA寝台、荷物車(越前)、郵便車(妙高)をつないだ夜行急行の風味十分な編成だった。
編成重量を減らすため座席車には10系座席車がメインで使われていたが、経年劣化で隙間風が目立つようになると座席がオハ47になった。
緩急車は当然の如くオハフ45がメインだったが、「妙高」では末期には先輩格で乗り心地がやや落ちるオハ35やオハフ33も登板したようだ。
急行「妙高」は深夜の運転で短距離であることもあり、あまり写真が残っていないのだが、「越前」は辛うじて日が上る時間に上野へ到着するため写真がある。
いかにも夜行急行らしい凸凹編成の先頭に立つEF62はどこか誇らしげに見え、なかなかそそられる情景だ。
「新型」電機ながら厳ついスタイルがまた意外と旧型客車に良く似合っている。
高崎線内は高速運転だと思われるが、高崎から先は碓氷峠を含めてEF62が得意とする勾配とカーブの連結する区間であり、自ずと速度が制限されるので、優等列車といえどさほど問題にはならなかったにだろう。


ところで、EF62のもう一つのステージである東海道の荷物列車は、EF62が牽引する頃には客車らしい姿をしたものは数両連結されるバラ積み用のマニ50と郵便車のスユ14、スユ15位のもので、あとは貨車のワキ8000やパレット積み専用のスニ40、マニ44が大半を占めていて貨物列車のような風情だったが、ダイヤは夜行急行のそれであり、ある意味夜汽車の仲間とも言える。
実際一部の列車は昔の夜行急行列車のダイヤをなぞっているそうだ。

なんともロマンのある話だ。

元々荷物列車が急行列車に連結されていた荷物車を出自としている事を考えればむべなるかなといったところだろうか。

そう考えると、EF62も華の東海道で夜行急行を引いた事になる…というのはやはり無理があるか(笑)

やはり彼等には華の東海道を舞うスターと言うよりは過酷な勾配に挑む山男という表現がいちばんの称号なのかもしれない。

次回はEF80を紹介する予定です。

写真1枚目:EF62の顔
窓上の一直線の庇と貫通扉付きの表情が厳めしい雰囲気。

写真2枚目:サイドビュー。大容量の抵抗器を冷却するため大きなルーバーが並び、ゴツい雰囲気を倍増している。
ルーバー上の小さな明り取り窓もこの機関車独特のものである。

写真3枚目:EF63との協調運転のためスカートに沢山のジャンパ栓受がモールドされている。
この機関車が特殊な使命を帯びて誕生したことを物語っている。
旧型電機ばりに3軸台車が二つあるのもEF62ならではの特徴だ。

マロネ38を組み立てる

夜汽車の汽笛への憧情-090201_1541~01002.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-090206_0844~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-090206_0843~01001.JPG

*この記事は2009年2月頃にmixiに書いたものです*
年末に娘を連れて久喜にあるキングスホビーに遠路はるばる行ってきた。

ここは「夜汽車の客車」に使用されるような客車をメインに扱う金属キットメーカーの店であり、野望を達成するためにはこのメーカーの客車を導入するのが必須であるからである。

金属キットというのはどうしてもディテールが大味になりやすいのだが、このメーカーのものはかなり細密に作られていて、プラ製品と引けをとらない。

さて、実は今回は様子見のつもりだったのだが、衝動的に買ってしまったのが同社製のマロネ38のキットである。

こちらもそのうち「夜汽車の客車たち」で紹介する予定だが、かいつまんで言えば、スハ32系に属する戦前製の2等寝台車である。
ツーリスト式というロングシート状の寝台の他に、特別室として4人用区分室を二つもつのが特徴だ。
そのため、かなり特徴的な窓配置をもつ客車となっている。

金属キットには区分室部分の仕切りも入っており、他も色々凝った作りになっていて、なかなか手強い。
別売部品で内装用にツーリスト式寝台と区分室用寝台・喫煙室用に転換クロスシートを利用することになっているが、区分室用寝台は売切れ、喫煙室座席は利用できる事を知らずに買わなかったので、ツーリスト式寝台のみ購入。
喫煙室用の転換クロスシートはその後鶴見の模型屋でゲットしたが、買えなかった区分室寝台はプラシートで自作してみることにした。

組み立てる上で一番の問題は、やはり金属キットであるので、ハンダ付けが必要になることだろうか。
瞬間接着剤でも組み立て可能との事だが、強度に不安がある。

しかしながら、我が家には反抗期を迎えた幼児がいるので、ハンダを使ったり、毒性のあるフラックスを使ったりするのはまだ怖い。
とりあえず接着剤でやってみるか、ハンダにするか悩んだ末に接着剤で組んでみることにした。何事も経験である。

それにしても、やはり手強い!

初っ端から雨樋の貼付けという難作業が待ち受けていた。
で、見事に失敗である。
雨樋は見事にカーブを描いている。屈辱だ(笑)

遠くからみれば誤魔化せる程度だが、瞬間接着剤の硬化速度と接着力をなめていた。
反対側の側面はエポキシ系接着剤を使うことで何とかなった。
これも貴重な経験だ。
とりあえず、事情が許せば雨樋だけはハンダ付けにした方が良さそうだ。

あとは思った以上にサクサク進む。
プラキットよりやる事が段違いに多いが面白い。
プラキットでは側板と妻板で四角に組めば車体部分は呆気なく出来上がりだが、キングスホビー製のキットは雨樋貼付けの後内張りと外張りの貼り合わせ、デッキ部分の組み立て、ドアの工作のあとようやく妻板を貼り合わせて、プラキットでいうところの車体が完成する。

外装が終わったら次は内装だ。
やはり肝になるのは区分室寝台だ。
寝台部分は厚さ1.2mmのプラ板を切出し、壁は0.5mmのプラ板を使用。
背ズリとして0.3mmのプラ板を貼ると案外それっぽく見えるものだ。

開放室部分のツーリスト式寝台は旧仕様製品に合うように作られていて現行製品に付けるためにはリブを削りとるという加工が必要になるのだが、これが案外難渋した。
零細メーカーだけにやすやすとモデルチェンジできないのは判るが、やはり対応して欲しいものだ。

最初に書いたとおり、マロネ38は区分室寝台と開放寝台の合造なので仕切りが多い。
開放寝台側デッキ寄りの客室仕切り、車体中央の仕切り、区分室仕切りとある。
これらに寝台や喫煙室座席をつけるとなかなか賑やかだ。
やはり面白い。

床下はプラ製で、GREENMAX製と似たような印象。ただし、床板自体は一般的な2軸ボギー車と共用であるため、3軸用に一部リブを削る必要がある。
もっとも、こちらはたいして面倒でもなかった。
パーツ自体の取付けはGREENMAX製より接着剤用の塗りしろが広くとってあり、しっかり組み立てができた。

床板の次は屋根だ。
プラ製の屋根パーツに通風器の取付け場所に穴を空けて通風器を差込む。
これはプラキットでも電車のキットでは珍しくない作業だ。
屋根の裏側にスケールが彫ってあって位置決めしやすく、GREENMAX製より親切だ。

屋根の車端部分には戦前製客車特有のステップを取付ける。これは細かいエッチングパーツになっていて、やや神経を使うところだ。
差込み用の穴が既に開いてるのでその点は楽である。

このステップはプラキットや完成品だとモールドになっていることが多いが、実感的なのは無論こちらである。

ここまできたらいよいよ塗装だ。

車体と内装部品をサンポールに漬けて歯ブラシで洗う。
エッチング液と酸化幕でくすんだような色だった真鍮パーツが新しい10円玉のようなきれいな色になった。

その後はメタルプライマーで塗装の下地をつくるのだが、このメタルプライマーがクリアでどれだけ塗れているのかわかりにくい。
特に夜間にベランダでの作業のため殊更判りにくく、初めてということもありここでも見事に失敗。塗り過ぎである。
悪いことに厚くなりすぎた部分が車体を流れている途中で固まってしまい、目立つ段差ができてしまった。
しかたがないのでぼってりした部分は一旦アルコールで拭いて剥し、塗り直し。
あとはサーフェイサーを吹いて修正することにした。

サーフェイサーを吹いて段差をペーパーがけし、勾配を緩くして目立たないようにするわけだ。
プラキットで塗装失敗した時の経験がここで約に立っている。
やはり何事も経験だ。

反対側は先の失敗を教訓になんとか光源を確保しつつ少しずつ塗り、成功の範疇に収まった。

室内仕切りも一部塗りすぎなっているところがあったが、車体に入ってしまえば見えない部分だったので目をつぶる事にした。
肝心の区分室仕切りは良い塩梅で塗ることができたので良しとする。

内装は全体をライトグレーで塗装する。
これはプラのパーツと真鍮パーツの色合いを統一するためだ。

ライトグレーが乾いたら、次はスロネ30に使ったウッドブラウンで塗装する。
なかなか良い感じだ。
次はいよいよ車体である。
まずはサーフェイサーを吹いてみる。
予想通りクッキリと段差がでてしまっている。
とりあえず600番・1000番・2000番のサンドペーパーで段差を削る。
削ったところでもう一度サーフェイサーを吹いてまた削る。
これを目立たなくなるまで繰り返すわけだ。
段々集中力が切れて来たので気分転換を兼ねて屋根と床下の塗装を行った。
こちらは特に失敗もないので楽なものだ。
床下は黒でシュシュッと塗ればおしまい。
屋根はステップが真鍮製なので軽くメタルプライマーを吹いた後にダークグレーを塗る。
いずれも納得いく範囲で塗ることができた。

床板を塗ったので台車を履かせる事にした。
台車は2軸台車であればGREENMAX製やKATO製を使えるのでピンではめ込みだけだが、マロネ38は3軸台車であるのでキングスホビー製を使わざるを得なかった。これがやや面倒な構造になっていて、真鍮製のスペーサーを噛ませて台車のボスを作る。
パイプとワッシャーを床板の穴に入れて台車をネジ止め。
どうも首振りのスムーズさが今一歩。これは調整が必要かも。


台車の取付けが終わったら再び車体の作業に戻る。
よくみなければ目立たなくなったところで、いよいよ青帯のライトブルーを塗る。
ちなみに自分は青帯の色としてGREENMAXカラーの伊豆急ハワイアンブルーを使用している。実物は青1号という色だそうで、やや緑がかった明るい青である様だ。

ここからはいつものプラキットと一緒だ。
ライトブルーを2度塗りし、マスキングを行う。

なお、ここまで一気に書いたが、実際は何日かに作業を分けて行っている。
なにせ、作業時間は娘が寝てからの深夜のみだし、それに加えて食器や調理道具を洗うのも夜は自分の担当だ。
まぁ、そんな訳で実は作業時間はまとまって取れないのである。

本音を言えば塗装は昼間にやりたいところなのだが、平日は仕事があるし休日は娘の相手だ。

まぁ、可愛い娘と嫁のためならそこは我慢だ(笑)

という訳で土曜夜着工で青塗装が終わったのは水曜日深夜である。
これでもなかなかのペースではないだろうか。

そしていよいよぶどう色2号の塗装だ。

こちらも要領は今までと一緒。
1mm幅のマスキングテープをウインドシルに添って貼付け、しっかりと抑えて塗料が回り込まないようにする。

マスキングが終わったらいよいよ塗りすぎてボテボテにならぬよう慎重に塗装する。
デッキ部分は凹凸が多いので念入りに塗装。
無論2度塗りである。
塗装は成功。
あとは十分に乾かしていよいよ仕上げだ。

まずはゴム系接着剤を利用して窓を貼る。

とりあえず客室部分全体に貼付ける。
その後でお楽しみの曇り窓の表現だ。
マロネ38はトイレと洗面所がやや変則的に付いており、開放寝台側のデッキ隣にトイレ・洗面所が一か所ずつ。車体中央に洗面所が一ヵ所。区分室側デッキ隣りにトイレが一ヵ所となっている。
そのため、曇り窓が目立つ車両となっているのだ。
トイレに関しては半透明のセロテープに白い紙を挟み、窓に貼付けてみた。
なかなか良い感じである。
洗面所は半透明セロテープを4枚重ねてみた。

さて、実はこの他にもう1ヵ所スリガラスがある。区分室側デッキの隣に給仕室があるが、スペースの都合上縦長になった。
このうちデッキ寄りが荷物棚になっていて、荷物棚部分が曇り窓になっているのである。
さらにネット上にアップされてる貴重な実物写真をみると、スリガラス越しに荷物車の窓のような保護棒が見える。
そこで、半透明セロテープにマニ60用の余った窓セルを挟み込んでみることにした。
結果は2枚目の写真で御覧のとおり。狙いどおりの表現となった。
後は屋根と床下をくっつけて、インレタでナンバーを入れれば目出度く完成だ。

写真はとりあえずナンバーと寝台表記まで入れたところ。
昭和34年6月~の仕様とすればこれで完成だ。
実は雨樋やプライマー失敗を鑑みて、この車はこのまま昭和34年以降仕様として、もう1両昭和34年以前風で作ってしまおうかと思ったりしているが、出来上がってみると思った以上に気にならないものだ。
塗装自体には比較的成功したからだと思う。
目的としている編成は主に昭和34年までであるので、やはり2等表記と形式上の所属表記を入れて昭和34年以前風にしようと思う。

と、いうわけで、とりあえずマロネ38は完成をみた。

続きは、夜汽車の客車たちで(笑)

写真1枚目:組み立て中。特徴的な窓配置がよくわかる。

写真2枚目:完成まであと一歩。手前側が゛2等特別室゛の区分室寝台になっている。

写真3枚目:反対から見たところ。手前の窓ごしに区分室仕切りが見えるのが特徴的。

夜汽車の客車たち(その20)

夜汽車の汽笛への憧情-090126_0211~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-090126_0212~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-090126_0215~01001.JPG

今回はスハ43系の寝台車スロネ30について書いてみる。

1.スロネ30の概要
スロネ30は、戦後初の日本人向けの寝台車として誕生した2等寝台車マロネ39の増備車として昭和26年に誕生した、2等寝台車である。
車体構造は完全切妻構造で、屋根は蒲鉾型の丸屋根。デッキは1ヵ所であり、ドア上に等級表示灯がついている。
台車は乗り心地のよいウイングバネ式のTR40を履く。
室内は4人用区分室の寝台が8つあり、窓は各部屋に1つ幅1200mmの広窓が付く。
以上から趣味的分類上スハ43系にカテゴリされる。

さて、この客車が誕生した経緯は、終戦直後に優等寝台車は進駐軍に接収され、日本人が利用できる寝台車はかなり少なくなっていた。
終戦直後は混乱もあって寝台車の需要はそれほどでもなかったが、混乱が落ち着いてくると2等寝台車の需要が高まってきたのである。
(当時3等寝台は不要不急とされていた。)

そこで、3等座席車に改造されていた元マロネ37のマハ47を試験的に寝台車に復元する事になったが、逼迫する需要に答えるために元のツーリスト式ではなく旧3等寝台のような枕木方向の寝台とし、定員を確保した。
区分室としたのは当時の治安の悪さによる防犯ための苦肉の策で、部屋の寝台はバラ売りだった。
さて、こうしてマロネ39が誕生し、これをいざ走らせてみると大変好評で、追加用として作られたのが今回紹介するスロネ30というわけである。
スロネ30ではマロネ39の設計思想を引き継ぎ、定員確保のためにデッキを1ヵ所とし、マロネ39と同じ理由で全室区分室になった。
トイレはデッキの反対側の車端に2つ設けられ、その向かいに洗面台が3つ取付けられた。
この時代の寝台車では常識だった喫煙室のスペースが確保できなかったため、現在の開放式B寝台車同様に通路へ折畳み椅子と灰皿を設けている。
長距離での使用を考慮して床下には大型の水タンクが取付けられ、これがスロネ30のアクセントになっている。
窓は前年に誕生した外国人向けの一等寝台車マイネ41同様の1200mm幅となった。
このため、非常にスッキリした外観になっている。
屋根は冷房装置を搭載しないために通常のものとなり、このおかげでぱっと見寝台車に見えないスタイルになった。(元々在来型客車の屋根は寝台の上段でも頭上スペースが確保できるだけの高さがある。マロネ40や20系以降の寝台車が通風器のない半円柱状の丸屋根になっているのは、寝台上段の頭上スペースを確保しつつ冷房風洞を通すためである。)
なお、区分室内の床面スペースを確保するため、下段の寝台幅は旧3等並の600mmとなった。

さて、スロネ30は総勢10両作られ、まずは東海道線の急行「銀河」「彗星」に使用された。
マロネ39も含めて連日好評であったが、昭和27からはマロネ37(後のマロネ29)が返還されたため、これ以上増えることはなかった。
誕生後僅か4年の昭和30年に一大転機が訪れる。
7月にこれまで一等寝台だった車両が一等寝台の利用不振をうけ、二等寝台に格下げ。これらは二等A寝台となるが、スロネ30は区分室ながら洗面台を持たないことから2等C寝台となった。
事実上の一等寝台の値下げであり、日本人の裕福層は2等A寝台を使う様になっていった。
また、昭和31年には3等寝台車が復活すると大半の元2等寝台利用客は3等寝台に移っていったのである。
寝台幅ではツーリスト式にも劣り、見知らぬ人と相部屋になるスロネ30は一気に人気がなくなってしまったのである。
それでも暫くは東海道本線の夜行急行「銀河」「彗星」「月光」で活躍したが、スロネ30には次なる試練が待ち受けていた。
昭和34年に軽量客車の10系にプルマン式の2等寝台オロネ10が誕生。
オロネ10は2等B寝台で、価格はやや高かったが、広い寝台と空調完備でその差は歴然としていた。
そのオロネ10増備によりスロネ30は東海道から追われ、東北急行の「津軽」「北上」に身を転じた。
しかしながら、そこにもオロネ10は進出してきて、他の2等C寝台車と共にその座を追われ、最期は準急の「あぶくま」「つるぎ」で使用された後に早々と定期列車から退き、登場後僅か12年の昭和38年には戦前製のツーリスト式寝台マロネ29より先に団体臨時用となったのである。

それから後は定期の運用を持つことはなく他のスハ43系客車が一線で活躍する中、車庫の隅で隠居生活を続けたが、昭和42年になるといよいよ2等C寝台車自体が淘汰され、たった10両の小所帯だったスロネ30はそのほとんどがマニ36に改造され、あとは廃車となり、昭和43年に17年の短い歴史に終止符を打ったのだった。
需要の変化故にスハ43系の優等客車でありながら近代化改造も冷房化もされず、悲運の歴史だったといえるだろう。

なお余談だが、スロネ30から改造されたマニ36の中には控車としてJR化後まで生き延び、保存車を除いて最も最後まで残る在来型の一員だったことを記しておこう。


2.我が家のスロネ30
我が家のスロネ30はコンバージョンキットの組み立て品である。
元々は旧友が組み立て途上で放置していたものを引き取ったもので、主な作業は内装作りと床下組み立て、全般塗装、窓ガラスの張付けだった。
用途はスロネ30の黄金期だった東海道本線での急行列車で、「銀河」「彗星」を主に担当の予定だ。

なお、キット故にナンバーはインレタ組み合わせで、トップナンバーのスロネ30 1とし、表記類は昭和34までのものとしている。
車体色は入手容易性と統一性を鑑みてぶどう色2号としたが、本来はもっと黒みの強いぶどう色1号である。
余談だが、我が家の客車には今までトップナンバーがおらず、このスロネ30が我が家で最初のトップナンバーの客車である。
ちなみに我が家の電車にはトップナンバーが存在している。
実車は黄金期の短い客車であったが、我が家では黄金期の輝きを再現したいと思っている。


3.スロネ30つれづれ
スロネ30は広窓が疎らに並ぶヨーロピアンスタイルながら全室区分室のため廊下の仕切りが目立ち、地味な印象のこの客車を引き立てている。
2等寝台でコンパートメントというと豪華なイメージがあるが、あくまで防犯を目的としたもので、居住性は3等寝台といい勝負だったというから、あるいみ面白い存在だ。
ちなみにほぼ同様のレイアウト持つ客車が、改造ながら国鉄末期にB寝台、つまり昔風に言えば3等寝台として誕生したのだから面白い。これらはカルテットと呼ばれて個室単位で売り出されたが、4人での旅行というのはさすがに需要が少なく、数年で廃止となっている。
現在の北斗星の開放B寝台にはBコンパートという通路仕切りを持つものがあり、バラ売りながら仕切り扉を閉めることでコンパートメントとして利用できる。このコンセプトはスロネ30に近く、世相が変わって中途半端となった故に悲運を送った客車のコンセプトが現代になって甦るのだから面白い。
もっとも、今のBコンパートのほうが等級は下ながらスロネ30より寝台も広く、冷暖房もついており、こればかりは時代の変化というか、世間一般の生活レベル向上というものを強く感じるところだ。
もっとも、今となっては日本では夜行列車が時代遅れのものとなりつつあり、絶滅寸前になっているのだが…。
話をスロネ30に戻そう。
スロネ30は巨大な水タンクを持っているが、実のところあまり長距離運用には入っておらず、おそらく定期列車としては九州に足を踏み入れたことがないはずである。
宝の持ち腐れのような気がしなくもない。

おそらく最長距離運用は「津軽」だと思われる。
上野から奥羽線経由の青森だから、ギリギリ合格点といったところか。
「北上」も上野~青森だが、常磐線経由なので「津軽」よりは短いはずである。

ところでスロネ30は昭和26年に登場して、1~5が品川、6~10は宮原に配置された。品川持ちは登場後すぐに「銀河」に使用され、宮原持ちは「彗星」に使用された様だ。
ただし、昭和28年位まで彗星にはマロネ39が入っていたという資料もあり、やや不鮮明である。
ちなみに、急行「月光」には昭和30年7月から使用されている。
こちらは品川持ちが担当したようで、昭和33年から34年にはマロネ48とも共演した様だ。
また、昭和34年9月の改正でスロネ30は東海道から撤退して東北へ転身しているが、品川持ちの方は尾久へ転属して「津軽」「北上」に使用されたことが判っているが、宮原持ちの方はこれといった資料がない。

おそらく団体臨時用となったものと思われるが、ハッキリしない。
昭和36年10月改正から準急の「あぶくま」「つるぎ」に使用されているが、「あぶくま」用は尾久から仙台に移ったものが使用された様だが、「つるぎ」用は宮原担当になっていて、これが宮原車の定期列車への復帰なのか、尾久からの転籍によるものかは不明である。
というのは、この頃の北陸本線は電気暖房を使用しているが、宮原持ちの車両は電気暖房を取付けていなかったからである。
無論、「つるぎ」に使用する際に改造を行った可能性もある。

最後に、スロネ30の晴れ舞台を紹介しておこう。
スロネ30の晴れ舞台と言えばやはり急行「彗星」であろう。
先出のとおり、「彗星」自体には昭和26年から使用されているが、昭和32年10月の改正ではこの「彗星」が大変身を遂げ、「走るホテル」として名高い「あさかぜ」もびっくりの豪華編成になったのである。
その陣容は荷物車を含む14両編成中2等寝台が6両も付く上、この2等寝台のうち5両が旧一等寝台の2等A・B寝台車で占められていたのである。
具体的には、特別室をもつマロネ49と、進駐軍肝入りの豪華な内装を誇るマロネ40が各1両、ゆったりとしたプルマン式寝台を持つマロネ41が3両という陣容で、その後に2等C寝台としてスロネ30が加わっていたのである。なお、他の7両は3等寝台のナハネ10が6両と緩急車としてスハフ42が付いていた。
昭和34年頭にはマロネ41に代り新星オロネ10が投入され、スロネ30が撤退するまでの僅か半年間ながら4世代の2等寝台車が同席するという、鉄道ファンにとっても凄い編成だった。
この陣容は昭和34年9月まで続き、マロネ49の最後の晴れ舞台だったのと同時に不遇だったスロネ30にとっても最も華やかな舞台だったと言えるのではないだろうか。

余談だが、大阪発大社行きの普通列車には永らく半室の二等C寝台車マロネロ38が使用されていたが、老朽化と施設の陳腐化により昭和38年10月にオロネ10に置換わることになった。
しかしながら実際にはオロネ10の製造が間に合わず、スロネ30がオロネ10配属までのリリーフとして登板している。
おそらくこれがスロネ30が最後に担当した定期運用だと思われる。

写真1枚目:通路側のスロネ30。
全室コンパートメントのため、車体全体の客室仕切りが目立つ。
床下の長い水タンクも特徴的だ。

写真2枚目:仕切りの目立つ寝台側。
一見寝台車らしからぬ大人しいスタイルだ。

写真3枚目:寝台の奥に仕切りが見え、区分室寝台であることを物語っている。
登場時は相部屋ながら日本人が自由に使える寝台車として喝采をもって迎えられた。
治安の不安定さと逼迫する需要に対応するための苦心の作だった。

スロ51組み立て中

先月鉄道模型イベントでたまたまレイルロード社のスロ51を入手した。
スロ51について詳細は追って夜汽車の客車シリーズを起こす予定だが、簡単に紹介しておこう。

スロ51は昭和25年にスロ50に続いて誕生した急行用の特別二等車である。
普通急行用ということでスロ50同様シートピッチは1100mmとなり、このため強度上の理由により1000mm幅の窓がつかえず、700mm幅の小窓がゆったり並ぶ独特の窓配置が特徴である。
車体は完全切妻構造で、ドアには2枚鋼板をプレス機で貼り合わせたプレスドアを使用している。
車体構造変化の過渡期であるためか、スロ50同様に縦の雨樋が車体端側面に付いている。
総勢60両と特別二等車としては最多勢力となったが、急行以下の列車にしか使われなかったせいか知名度は今一つで、Nゲージとしては金属製キットを組むしか入手手段がない。
マロネ29と並んで夜行急行編成実現の壁として君臨している。

さて、レイルロード社のキットはGREENMAX製のキットを種車とするコンバージョンキットだが、今時のキットと違い内張りと外張りを合わせる方式ではない。
また、デッキドアは付属しており、種車キットの側板は使用しないことになっている。

また、スケールは正しい1/150となっているため、デフォルメのため1mm短いGREENMAX製の屋根を延長してやる必要がある。
なお、スロ51キットは昭和32~33年に行われた近代化改造後も作れる様になっており、窓部分のサッシは別パーツになっている他、2段式のトイレ窓と10系型の開閉サッシ付きデッキドアが付属しており、原形車に存在する縦雨樋は表現されていない。説明書でも各自工夫の事との旨が書いてある。

側板と妻板の接着シロになるものは特になく、スペーサをかます必要がありそうだ。
また、ドアは床板止め兼スペーサを一枚かまして取付けることになっているが、イマイチ奥行きに欠けるような気がする。
また、等級表示灯は別パーツになっていて取付ける必要があるが、接着シロのようなものは見当たらない。
どうやら工夫が必要な様だ。


さて、いくつかの課題を残しつつ組み立てに入る。
今回は昭和30~33年の急行列車をメインとするため原形車として組むことにする。

パーツをエッチングハサミで切り出して
板がやや厚めなのか、最近よく組んでいるレボリューションファクトリー製よりも切り放しは容易だ。

まずはドアのスペーサと床板止めを張り付ける。
床板止めの位置調整が微妙に難しく、左右で若干ずれてしまった。
原形車なので、窓サッシも先に張り付ける。これは一般のキットの内張りと外張りの張り付けに近いが、スペースが狭いためよく接着剤が行き渡る様に考慮する必要がある。
位置も当然考慮しなければならないので思いの他難しい作業になった。

さて、次はレボリューションファクトリー製の2段雨樋を付ける。
細かいパーツだが、見た目の効果は案外大きい。
マロネ29と同じ要領で雨樋を張り付ける。
車体端の絞り部分がないだけ気楽ではある。
さて、問題はドアだ。
試しに付属のドアを当ててみるが、やはり奥行きに欠ける。
もう少し奥行きが欲しい。
そこで思い付いたのが、種車のスハ44のデッキを使う事である。
ここでよからぬことを思い付く。
そういえば、TOMIXのオハ61系から取り外したプレスドアがある。
こちらのほうがディテールも良いしはめ込み窓にできる。
GREENMAXのキットにTOMIXのドアをハメるのはスロ54冷房改造車で経験があり初めてではない。

そこでドア交換加工から始める。
いつものとおりドアをくりぬいて、TOMIXドアを差し込む。
ところが、思わぬ誤算があった。
TOMIXのドア窓が少し大きいのだ。
オハ61用として厳密に作ってあったと言う訳だろうか。(実物もスハ43用より微妙に窓が大きいそうだ)
スロ51には等級表示灯があるので上目遣いな表情になってしまうのだ。
幸か不幸か、スロ51には昭和30年頃ドアをHゴムドアに交換したものがいるようだ。
そしてTOMIXの交換用Hゴムドアがまだ残りがある。
方針変更でここはHゴムドア交換車にすることにした。
正確にどの車両がドア交換車だったのかは不明である。
調整が終わったらデッキ部分を切り出して側板に貼る。
当然と言うべきか等級表示灯が奥まってしまったので、キット付属の等級表示灯を上から付けてやる。
これで丁度よい感じになった。

次は原形車の特徴である側面にある縦雨樋を再現するため、妻板の雨樋を削り、側板に雨樋を付ける。
雨樋には厚さ0.14mm、0.5mm幅のプラシートを2枚重ねて使用した。
上手くいったかどうかは塗装した特にに判明することになろう。

次は妻板の加工。
まずGREENMAXのエラーでデッキ側の妻板に貫通扉が付いているので撤去。
トイレ側の妻板の貫通路は元々存在するが、キットのものはHゴムになっている。実物は原形車の場合木製だったのでドア窓を広げて角張った形にした。
窓下のくぼみも本当は欲しいところだがこれは省略。

さて、車体は目処が付いたので屋根の加工だ。

屋根は前述の理由により1mm延長しなければならない。
そこで0.14mm厚で幅1mmのプラシートを使って延長する。
パテ代わりにスチロール樹脂用の接着剤を塗って、その上からドア加工で発生したプラの削りカスを撒いて塗り込むようにする。
即席パテの出来上がりだ。
乾いたあとはサーフェイサーを吹いてヤスリで整えてやる。

これで強度も問題ないようだ。
最後に実寸に合わせて削る予定だったが、そのままでサイズはピッタリだった。
GREENMAX製屋根はジャスト1mm短かった訳だ。
ベンチレータは説明書どおりに素直に付ける。今回もキット付属ではなく、GREENMAX製の別パーツだ。


これが終わればあとは床下を組んで箱型に組むだけだ。
説明書どおりに床下機器を取付けて終了。

いよいよ車体を箱型に組む。
さて、妻板を付けるにあたり、デッキ側はドア部分が接着シロになるので問題ないのだが、トイレ側は接着シロがない。
そこで、種車の側板の車端部を切り落として接着シロを作ってやることにする。
種車のモールド類を全て削った上、板厚分だけさらに削る。
そして普通にプラ用接着剤で妻板につけてやれば側板の接着シロになってくれる。

あとはレボリューションファクトリーのコンバージョンキットと同じ要領で箱型に組む。
さて、いよいよ床板と車体を合わせてみると、思わぬ問題が発覚。
床板止めが床板に届かない。
スハ44の床板はいくつかくぼみがあり、狭くなっているのだが、丁度床板止めがくぼみの部分に来てしまい、押さえ部分の長さが足りないのである。
これは困った。
箱型にしてしまった今となっては床板止め用リブを設けるのも、瞬間接着剤を使うためどうしても難しくなる。
悩みに悩んでいたら、ふと妙案が浮んだ。
リブ止め用のプラ棒に1mm角のプラ棒を2本付けてスペーサ代わりとするのだ。
これなら断然位置決めは容易になる。
さて、床板をはめてみると今度はバッチリハマった。
屋根のほうも特に問題はなさそうだ。
例によって脱着式にするためリブを付ける。
今回はレザーソーで切り離した床板の錘止めを使う事にしてみる。
廃材の有効活用だ(笑)

ここまでできたら次は内装だ。
今回は仕切りは3枚。両側にドア窓下の凹みが要る様なドアもなく、かなり楽ができる。
給仕室も狭いため荷物棚を兼ねたテーブルがなく、折畳みテーブルがあるだけである。
喫煙室もない。
というところで、仕切りはいつもの方法で組み立て、客室はリクライニングシートを窓に合わせて並べるだけである。
やはりかなりシートピッチが狭く感じる。

デッキも一ヵ所なので戦前型にくらべると随分楽だ。

平行して車体の塗装を行う。
いつもどおりプライマー→サーフェイサー→ハワイアンブルー→ぶどう色の順序で塗る。
今回はドアははずしておき、元から塗られているぶどう色を生かしてみる事にした。

給仕室座席はいつもどおり緑で筆塗り。
一人用の小さい椅子が可愛らしい(笑)

それにしても、スロ51の給仕室は本当に狭い。給水機が給仕室内に出っ張っているのでただでさえ狭い給仕室内が余計に狭くなっている。

定員を増やすための涙ぐましい努力の結果である。

リクライニングシートは例により赤2号、壁はクリーム4号、デッキはクリーム1号に塗る。
シートには白のマーカーで色差しをして枕カバーを表現してみた。
床板にはウエイトとして釣り用の鉛板を両面テープで固定。また、床板自体も両面テープでの固定にした。工夫すればリブ止めにできそうなきもするが…。

塗装が終わったらレボリューションファクトリー製のインレタでマーキングである。

ナンバーは従来GREENMAX製を組み合わせていたが、こちらもレボ製を使用した。
さて、肝心のナンバーはスロ51 32である。
所属はマロネロと揃えて「西海」と「さつま」で活躍した早岐客車区(門ハイ)だ。

なお、この車がHゴム固定窓の1枚鋼板ドアになったかどうかは不明だ。
スロ51は全車昭和25年度の短期間に製造されているので、一概に番号での推測ができない。
ただ、雪や潮風で腐蝕しやすい所で使用された車両のほうか交換された可能性は高い様に思う。
その考察からすれば、比較的条件のよい早岐の客車はプレスドアのままだった可能性が高い。
まぁ、裏付け資料もないのでとりあえずは気にしないことにする。(笑)

というところでひとまず完成だ。
ドア色は特に違和感もなく、丁度よい感じである。

スロ51は非常に使い道が多い車両だけに、今後が楽しみだ。


レイルロード社のキットは初だっただけに手間取ったことも多かった。
工期は約二週間だったが、色々と反省点の残る仕上がりである。

今後もより一層努力していきたい。

写真1枚目:組み立て中のスロ51。
夜汽車の汽笛への憧情-091101_2251~01001.JPG


写真2枚目:ずらりと並んだリクライニングシート。
夜汽車の汽笛への憧情-091108_1507~01.JPG


写真3枚目:とりあえず完成。
夜汽車の汽笛への憧情-091108_1520~01001.JPG

ボギー台車

夜汽車の汽笛への憧情-091108_1956~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091108_2000~01001.JPG

夜汽車の汽笛への憧情-091019_0806~01001.JPG

鉄道車両の場合、車体は台車を通して線路に乗っている。
このうち、水平方向の回転機構を持っているのがボギー台車という。
通常の車両は2軸で構成される台車を車体前後に配しているが、機関車や重量のある車両では軸重を軽減するために1~3軸の台車を多数配することもある。

写真1枚目:通常の2軸ボギー台車。

写真2枚目:戦前まで優等車両に乗り心地向上を狙って用いられた3軸ボギー台車。

写真3枚目:電気機関車EF58では重い車体を支えるため2軸ボギーの従台車を前後き配したうえで、動輪として大きな3軸ボギー台車を2つ車体いっぱいに配して、合計8軸で115tもの重量を支えている。

夜汽車の用語集

夜汽車シリーズを読む上で必要と思われる用語の簡単な解説集を作ってみました。
しかし、たぶんググったほうが気が利いた解説があると思います(笑)
(工事中)

歴史に関する事柄
 昭和4年 客車称号改正
 昭和9年 一等車運用範囲縮小
 昭和15年2月 等級帯改正
 昭和16年11月 客車称号改正
 戦時改造
 昭和24年 等級帯改正
 昭和25年 特別二等車誕生
 昭和27年 表記変更
 昭和28年 客車称号改正
 昭和30年7月 一等寝台車廃止
 昭和33年10月 特別二等料金廃止
 昭和34年6月 塗装表記変更
 昭和35年6月 二等級制施行
 昭和36年7月 等級帯変更
 昭和39年10月 塗装規定変更
 昭和44年5月 モノクラス制施行
 等級帯廃止
 昭和61年9月 鉄道郵便廃止
 昭和61年11月 荷物輸送廃止
 
客車の車両構造に関する事柄
ボギー台車
 二軸ボギー台車
 三軸ボギー台車
 サスペンション
  イコライザ式台車
  軸バネ式台車
  ウイングバネ式台車
 枕バネ
  板バネ台車
  コイルバネ台車
  空気バネ台車
妻板
 切妻
 キノコ妻
 折妻
屋根
 二重屋根
 丸屋根
側板
 ウインドシル・ウインドヘッダー
 リベット止め・溶接
デッキドア
 木製ドア
 鋼製ドア
  プレスドア
  一枚鋼板ドア
集中電源方式
固定編成
重量ランク

設備に関する事柄
一等車
二等車
 特別二等車と並二等車
三等車
一等寝台車
二等寝台車
 二等A・B・C寝台
三等寝台車
グリーン車
普通車
A寝台車
B寝台車
食堂車
 電気レンジ・石炭レンジ
 氷冷蔵庫・電気冷蔵庫
合造車・半室
郵便車
荷物車
緩急設備
蒸気暖房・電気暖房
冷房装置

戦時改造

戦時中ね輸送を確保するため、優等車両を三等車とする改造が行われた。
対象は主に寝台車と食堂車だった。
なお、三等車の一部は出入台付近にロングシートを設けて定員を増やしている。

主な改造例:
寝台車
マイネ37→マハ47
マロネ37→マハ47
食堂車
スシ37→マハ47
スシ37→マハ(シ)48
スロシ37→マハ(シ)49
※(シ)は小さい字でかかれており、厨房を残している。

三等車:
スハ32→スハ36
スハフ32→スハフ34
オハ35→オハ40