夜汽車の汽笛への憧情 -144ページ目

魅惑の夜汽車たち(序章)

手持ちの車両をほぼ紹介したこともあり、今後はその夜汽車の列車自身に焦点をあて、その列車の歴史や模型での組成、また個人的な思い等をつでづれと語ってみようと思う。
無論、新規に車両を入手した場合には「夜汽車の客車たち」や「夜汽車の機関車たち」を起こして紹介していく予定である。

1.夜汽車の魅力
夜行列車は今でこそその役割を終えて衰退の一途を辿っているが、かつて長距離移動手段の主たるものであり、ごくふつうにありふれたものでありながら、特別な日常を演出するものであった。
時には新たな任務に就くための移動手段として、時には故郷への旅の手段として、時には見知らぬ土地への誘い手として、時には旅先から日常生活へ戻るための道具として、様々な人生とドラマを運ぶ存在だった。
長い時間をかけて目的地に辿り着く様はどこか人生にも似た趣がある。
そして、長時間の後に疲れきった体で目的地に到着したときの感慨は、「本当に遠くへ来たものだなぁ」という、一種の達成感のようなものがあったのである。
そんなところが夜汽車の魅力ではなかろうか。

鉄道ファン的な見地で見る夜汽車の魅力になると、さらに車両面での面白さがある。
夜行列車は用途や利用層は多様なるが故、それに対応するために、庶民の羨望を集める豪華な個室寝台から一般人が利用する普段と変わらない座席の並んだ車両まで、多様な設備を持つ車両が連結されていたのである。
各車両についてもその成り立ちや文化的な歴史があり、非常に興味深いものになっている。
また、編成自体も時には車両の入れ替えや切り離しなどもあり、非常に興味深い。
さらに、夜行急行に限っていえば、その編成の多様さも魅力である。
特に旧客時代の夜行急行は「同じ編成の列車が他に存在しない」といっていいほどの多様さで、編成の組成を見ただけで列車をほぼ特定できるほどである。
そんなところが鉄道ファンからみた夜汽車の魅力なのではないかと思う。

2.模型で再現する夜汽車たち
Nゲージで魅力あふれる夜汽車を再現するのは非常に楽しいことである。
多種多様の車両が機関車に牽かれて、あるいは電車として通過していく様を見るのは本当に面白い。
それと同時に非常に困難な作業でもある。
というのも、総じて編成が長く車両の種類も多いためである。それゆえ、完成品としては模型化されてないものも多く、改造や組み立てが必要なものも多い。
組成について時代別に見ていくとしよう。

・戦前の列車
資料自体があまりなく、組むのは非常に困難になっている。
特に木造車になるとほとんど模型化されていないので組成は難しいのではないかと思う。
ただし特急「富士」と「櫻」、名士列車といわれる「17,18列車」についてはキングスホビーから出されているキットで組成可能である。
しかし、スハ32を除くほぼ全車が要コンバージョンまたは真鍮キットであり、その道のりは非常に険しい。

・戦後まもなくの列車
やはり資料があまりなく困難な状況ではあるが、落ち着いてくる昭和25年頃からの編成は比較的資料もそろっているようだ。
昭和26年以前は客車はスハ42がかなり出てくるため、組成難易度は結構高い。
厳密に言えば昭和24年と昭和28年に称号改正と表記方法の変更があり、その点も気にするとなかなか困難である。

・昭和30年代の列車
ある意味夜汽車の黄金期である。
このあたりになると資料も充実しており、比較的組成はできるようになるが、やはり車種が多く金属キットに大いに頼らねばならない部分が多い。
そのため相変わらず組成難易度は高い状況は変わっていない。
マイクロエース製の客車の10系寝台とマロネ40、スハネ30はそこそこ使える。
また、昭和30年代は2度帯色や塗装・表記の変更があるため(昭和34年6月と昭和36年7月)、悩ましい要素となっている。
寝台特急はKATO製の20系がかなり使えるが、マヤ20やナハネフ21など、地味に入手困難な車両もあり。

・昭和40年代の列車
このあたりは資料も充実し、車種もかなり淘汰されてくるので組成は容易になってくる。
非冷房車やスハネ30の混在する昭和40年~42年はかなり難易度が高いが、昭和42年以降であれば冷房車になるので完成品が使えるようになる。
特に昭和44年以降であればKATOの完成品でかなり組めるようになる。
ただし、関西系の急行はスハフ43形10番台やスロ54冷房改造車があるため、厳密にやろうとすると難易度は少し上がる。
簡単にやるのであれば実際に代走のあったスハフ42やスロ62を代用すればよいだろう。
また、昭和45年頃まで残ったマロネ40とマロネ41、オシ16は難しい存在になるであろう。
ブルートレインは完成品でかなりいける。

・昭和50年代の列車
前半は上野口の急行列車に旧客急行が残るが、概ねKATO製の完成品でいける。
スニ41とワサフ8000が若干入手難易度高め。マニ37はGMキットだができたらほしいところ。
マニ36の完成品がTOMIXから発売されたので荷物車も入手容易になった。
この頃になると20系化された列車が登場するが、改造座席車ナハ21が難関か。
座席車に12系客車が登場したり、後期には14系座席車+14系寝台車も登場しているが、こっちは品薄という意味で組成が難しいかもしれない。
ブルートレインは車種も少なく、品数さえそろえばもっとも組成しやすいと思われる。

・昭和60年代以降の列車
夜行急行はほぼ終息で、14系や24系も登場している。
編成も短くなっていて、このため比較的組成は容易である。
ブルートレインは改造による個室寝台が増えて難易度アップ。幸いかなり製品化されているのもある。
平成に入ってからの列車は「さよなら」シリーズで製品化されているものがおおい。

といったところである。
次回以降は各列車に焦点をあてて行こうと思う。

第一弾は戦後初の夜行特急列車「あさかぜ」の予定です。

夜汽車の機関車達(その5)

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今回はディーゼル機関車の雄、DD51について書いてみる。

1.DD51概要
DD51は昭和37年に登場した客貨両用の幹線向けのディーゼル機関車である。
昭和30年代も後半になると、電化区間の進展により無煙化が始まっており、非電化区間の無煙化が課題となっていた。
昭和33年には電気式(ディーゼルエンジンで発電を行い、モーターで駆動する)のディーゼル機関車DF50が登場し無煙化を始めていたものの、DF50は蒸気機関車のC57より非力であり、無煙化はできるものの速度面での問題があった。
そこでC61並の速度とD51並の牽引力を狙って開発されたのがDD51である。
先に登場した入替用の機関車DD13が安定した性能を発揮していることから、DD13が採用している1000PSのエンジンDML61Sを2機搭載し、トルクコンバータの技術進展もあって、動力伝達は液体式(エンジン自体を動力とし、トルクコンバータ(液体式変速機)により変速する。自動車のAT車と類似の方式)となった。
軸配置はB-2-Bとなっている。
中間の従台車は荷重をコントロールできるようになっており、これにより軸重を条件によって変更できるようになっている。
さて、DD51最大の特徴はそのスタイルで、幹線用でありながら車体中央に運転室を持つ凸型をしている事だろう。
これは線路の弱い亜幹線にも使える様に軸重を減らし軽量化するのが目的で、入替用としては珍しくはないが幹線向けとしては世界でも珍しい部類に入る。
しかしながら、十分な出力と安定した性能から16年間に渡って製造が続けられ、649両もの大勢力となった。
このため、四国を除き「非電化区間では何処でも見られる」と言える程のディーゼル機関車の代名詞的存在となった。
なお、実際には線路の弱いローカル支線には入れなかったのは言うまでもない。
なお、DD51は試作機の他、量産型は大きく分けて3タイプある。

0番台は非重連型と呼ばれ、試作機を含めて重連用の機器がない。
客車牽引用に蒸気暖房装置を搭載している。
20号機以降はエンジンが改良型のDML61Zとなり、1100PSへパワーアップしている。
0番台は試作機を含めて総勢53両で、このうちの一部は20系客車牽引用のブレーキ装置を搭載している。
なお、一次試作機の1号機はライトが車体から飛び出た形になっており、運転台上に庇がないため丸みを帯びた独特のスタイルで、他の機体と印象が異なっている。
また、登場時は茶色に白い帯という出で立ちだったが、後に2号機以降同様の朱色を基調とした標準的な色になった。

500番台は重連を考慮したタイプで、492両の最大勢力となっており、実質の標準型である。
スタイルは0番台後期と同じである。客貨両用のため基本的には蒸気暖房用設備を搭載しているが、一部の機体は蒸気暖房用ボイラが省略されている。
このうち501~592号機は機関車単体用のブレーキ弁(単弁)を操作した際に補機のブレーキが作動しない半重連型と呼ばれている。593号機以降は単弁を操作した際に補機のブレーキも作用するようになり、全重連型と呼ばれている。
なお、半重連型も一部改造して全重連型になったものも存在した。
ところで、500番台は492両製造されているが、後述する800番台と番号が重複するため、799号機の次は番号が飛んで1001~1193の番号が付いている。
1001号機以降は番号が飛んだだけでなくルーバーの形が変更になったり、ナンバーがブロック式のプレートになるなど、若干外観が変更された。

800番台は基本は500番台全重連タイプと同じながら蒸気暖房装置を省略して貨物用としたもので、500番台と平行して作られた。
800番台は104製造されたが、900番台は国鉄の慣例として試作車に付番していたことから、500番台同様899の次は番台が飛び、1801~1805となった。

さて、DD51は東北地区を皮切りに蒸気機関車を置き換えていった。特にD51の後釜としてDD51が入る事も多かった。
このため蒸気機関車ファンには目の敵にされることもあったようだ。
北は北海道から南は九州まで配置され、使用する地区による仕様の違い(酷寒冷地向け、寒冷地向け、暖地向け)も現れた。
幹線向けディーゼル機関車にはDD51の後発として大出力エンジンを積んだDD54と、より軸重を落として低規格路線を走れるようにしたDE50が登場したが、DD54は故障頻発でまともに使い物にならず、DE50は動力分散化と電化が進んだため既に牽引対象もなかったことから、DD51が引続き生産され、蒸気機関車を一掃した後は性能の劣るDF50や故障だらけのDD54を置き換えて行った。

昭和60年代になると電化の進展や貨物列車・客車列車の減少に伴い、初期型は経年もあって廃車が始まっている。
JRにも多数が引き継がれたが引続き廃車は進み、基本番台は全滅。500番台も半重連型は全車廃車になったが、残りは後継となるディーゼル機関車が誕生しなかった事もあり貨物用を中心として生き残った。
平成に入ってからようやくJR貨物が北海道向けに新型の電気式ディーゼル機関車DF200を誕生させDD51を一部置き換えたが、他の地域向けにはDF200に使用したエンジンに換装して更新工事を行っており、まだまだ活躍する見込みである。
また、旅客鉄道用は少数ながら貨物列車の牽引と臨時の客車列車用に数両残しており、後継機を開発する程の需要もない事からもう暫く活躍する姿をみることができそうだ。

2.我が家のDD51
我が家のDD51はTOMIX製で、近年リニューアル生産されたものだ。
さすがに最近の製品とあってディテールは秀逸で、特徴あるスタイルをよく表現している。
なお、モデルは準寒冷地向けまたは暖地向の500番台となっていて、ナンバーは選択式となっており、自分は692号機を選択した。
同車は佐倉に永年配置されたが、昭和54年頃に米子に異動し、山陰本線で活躍した。
我が家への導入目的は主に「さんべ」「だいせん」牽引用だが、無論実車同様非電化の雄として広く活躍している。
ブルートレイン用のヘッドマークも製品に付いているので、運転会では「出雲」のヘッドマークを付けて20系客車の先頭に立った事もある。
ディテールと安定した走行性は文句なしなのだが、難点はカプラーである。
電磁アンカプラー対応のアーノルトカプラーが付いているのだが、これが簡単に上を向いてしまい、カプラーの相性によっては走行中に自然開放してしまう事が何度もあった。
かといって、我が家の客車は編成の柔軟性を考慮して見た目犠牲で全てアーノルトカプラーとしているため、他のカプラーに変更する訳にもいかず頭の痛いところだ。

3.DD51つれづれ
DD51は非常にメジャーな機関車だが、自分にとっても馴染みのある機関車だ。
というのも、八高線が非電化の時代によく拝島駅にタンク車をひきつれて止まっている姿を見ていたからである。
文鎮の親分のような凸型ボディーがラジエターファンの上に付いている風車の様なモノと共に強く印象に残っている。
しかしながら、客車を引いている姿はあまり見た事がなく、どちらかと言えば貨物用の印象が強い。
そんなDD51だが、実は長時間じっくりと見た経験がある。
高校時代に鉄研の旅行で「ユーロのりくら」号に乗りに行った際に指定席が展望車だったのだが、岐阜から高山までは最前部。つまり機関車のすぐ後ろだったのである。
その時に牽引したのが欧風客車ユーロライナーと同じ塗装を施したDD51 592だった。
半重連型のラストナンバーでSGボイラ非搭載の機体だが、7両編成で電源・暖房を自前で持つユーロライナーには全く問題なく、実用一点張りのスタイルに特別塗装が施された姿は思った以上にかっこよかったのを覚えている。
その592号機はユーロライナーより早く鬼籍入り。後継機も登場したが、ユーロライナー自体がいまや過去帳入りしてしまった。

他に特筆すべき特別塗装と言えば、やはり北海道の北斗星用牽引機だろう。
ブルートレインに合わせたブルーに金の帯があしらわれ、キャブには星の模様が施されている。
これがまたなかなかよく似合っていてカッコイイ。
しかも、勾配区画を超えるためか重連で運用され、なかなか勇壮な姿である。
残念ながら実車を直に見た事はまだないが、写真でもその魅力は十分伝わって来る。
無論機会があれば直に見てみたいのは言うまでもない。


見た目を狙ったデザインではないが、やはり機能美と言うべきか。

無論、一般塗装も良い。特に青や茶色の旧型客車の先頭に立つ姿は、その武骨なスタイルと共にマッチしており、朱色が編成のワンポイントになっている。
不思議にもどんな列車にも似合っていてEF80の様に旧型客車が一番似合うと言う訳でもないのだが、旧型客車との組み合わせはローカル列車独特の味わい十分で、旅情を掻き立てられるものだ。
急行編成も良いが、オハ61系中心のローカル編成もよく似合う。
そういう意味では秀逸なデザインと言えるのかもしれない。

余談だが、DD51の一部には物々しいプロテクターを装備しているものがある。
非電化区間でタブレットを自動でキャッチする際に車体を保護するものだが、これがゴツくてカッコイイ。
遠い将来かもしれないが、DD51をもう一両買ったら付けてみたいとおもう。



写真1枚目:実用一点張りのスタイルとなったDD51。多数のハッチやルーバーが配置され、メカニカルなスタイルだ。

写真2枚目:凸型の車体が特徴的なサイドビュー。
赤い車体に白い帯と防振ゴムがアクセントになっている。
「文鎮の親分」とはいいえて妙だ。

写真3枚目:「ボンネット」の上にもハッチがいっぱい。
上から見ると灰色が目立つ配色になっている。
最前部のラジエターファンがひときわ目立つ。

蒸気機関車C61形復活

今回は実物の話。
今年6月に一部報道機関で報道されていたが、JR東日本が2011年春を目標に蒸気機関車のC61を復活させる事を正式に決めたそうである。
ソースは公式サイト。

背景には既に動態保存機として活躍しているD51とC57が、列車が常に満席となるほどの集客力を見せている他、昨年にD51が空炊きをおこして故障し、長期離脱を強いられたが、その埋め合わせが容易にできる体制を作る必要性を認識したということもあるようだ。

C61について軽く触れておくと、戦後に誕生した旅客用機関車で、急増する旅客需要と減少する貨物需要に対応し、余剰になったD51のボイラにC57相当の足回りを組み合わせたものである。
戦後まもなくで石炭の品質が悪かったことから、性能を引き出すためには乗務員の負担が増す事が予想されたため、自動給炭装置を付けたのが特徴で、このことが優等列車を引く上でアドバンテージとなった。
軸配置は動輪の前後に2軸ずつ従台車を持つ2-C-2配置で、C57より一回り大きいものとなった。

C58しか入れない丙線規格に使用できる様軸重軽減されており、本線ながらも規格が亜幹線級の東北と九州に配置され、総勢33両の小世帯ながら、各種急行列車や特急「はつかり」、寝台特急「はくつる」「はやぶさ」を牽引し、華々しい活躍をみせた。

なお、動軸周出力は1777PSであり、C57とC62の間であるが、上で述べたとおり軸重を軽くしたことからC57より牽引力は落ちるため、加減速の必要な普通列車より、自動給炭装置の恩恵で高速走行が得意なこともあり優等列車中心に使用された。

さて、今回復活するC61は群馬県の公園に静態保存されている20号機である。
その生涯のほとんどを青森ならびに仙台機関区で過ごしが、晩年に鹿児島へ移って日豊本線で働いた経歴を持つ。

復活後は保存場所に近い高崎の所属となり、D51 498と共に上越線の高崎~水上と信越線の高崎~横川を中心に運行する予定だそうで、現在D51単独で年間50日程度の運行であるところを、D51、C61のタッグで年間110日。つまりほとんどの土日と繁忙期に運転となるそうで、蒸気機関車の活躍を見る機会が飛躍的に増えそうな気配だ。

そして、今回自分が注目しているのは「同時に旧型客車7両を整備」としているところである。
おそらく高崎に所属している7両だと思うのだが、これらは既に整備されて東日本エリアで大活躍をしており、わざわざここで書いた裏に何があるのか不思議におもっているのである。
さらに、これは朝日の記事のみに書いてあることだが、「6両編成(定員496名)を使用」と書いてあるのだが、この定員を算出すると緩急車4両+普通車2両となり、現在高崎にいる客車では実現できない数になっている。
というのも、高崎の旧型客車は

・緩急車(定員80名):スハフ32×1、スハフ42×2
・普通車(定員88名):オハ47×3
・普通荷物合造車(定員48名):オハニ36×1

の陣容で、緩急車が足りないのである。

この2点から、ひょっとすると静態保存車を復活(横川のナハフ11や越後中里のスハ43系群)させたり、他社の保存車(東海博物館行きから漏れたという噂の佐久間レールパークにあるオハフ33や、西日本のオハ46 20、大井川鐵道の旧型客車等)を譲り受けたりということもありえるのかもと妄想してしまう。
無論、朝日新聞の定員がミスで、高崎の7両を追加整備
(一部のみ使用可能となっているトイレを全車使用可能に整備。
現在基本的に使用しない冬季の使用に備えて蒸気暖房管の整備。
運用容易性の妨げとなっている手動ドアにJR北海道方式での電磁ドアロックの整備等)ということも考えられる。(というか、そうなんだろうけど。)
近代化改装で塗りつぶしになってるオハ47の内装をニス塗りにしたら面白いんだけどなぁ。

いずれにしても楽しみだ。

高崎ならなんとか日帰りでも行ける距離。
首都圏で蒸気機関車と旧型客車の組み合わせに乗れるとあっては行かない訳にはいくまい(笑)

釣合い梁式台車

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明治時代後期から昭和初期までに登場した鉄道車両に使われた台車。
鋼体化客車や旧型電車に使用されたため、活躍期間長く、いまでも動態保存の旧型電車でその姿を見る事ができる。
車軸間にイコライザが配置されているのが特徴。

代表的な台車形式は
・TR11
・DT10
など

写真はスユニ61のTR11

夜汽車の機関車達(その5)

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今回は常磐線の主として君臨したEF80について書いてみる。

1.EF80の概要
EF80は常磐線の電化に際して昭和37年に登場した交直流両用の電機機関車である。
急峻な山道のある東北本線の迂回線的な役割を持つ常磐線は北海道連絡で編成の長い長距離列車の大動脈となっていたが、取手までは早くから電化したもののその先は永らく非電化で、昭和30年代になっても長距離列車は蒸気機関車牽引の客車列車のままだった。
昭和36年にようやく取手以北も電化することになったが、直流電化では茨城県石岡市にある地磁気観測所に影響を与えるため、取手~藤代間にデッドセクションを設けてその先を交流電化とすることになった。
そこで走ったまま両方の電化方式を切換えて対応できる車両が必要となったが、電化に先立って昭和34年に交直流両用の試作機関車としてED46が誕生した。
交流用と直流用両方の機器を積む必要があることから、車重軽減を狙って1台車に大出力のモーターを1台搭載し、2軸を駆動するために継ぎ手を用いたカルダン駆動となった。
そのED46の成果を生かして量産型第一弾として関門トンネル用のEF30が昭和35年に誕生したが、その次に本来の常磐線用の量産型機としてEF80が誕生することになった。

台車は新型電機標準の2軸ボギー台車を3つ配置するB-B-B配置で、機器のシステムはED46を踏襲し、1台車1モーターのカルダン駆動となった。
なお、モーターはMT53型で一台あたりの出力は650kw。
総出力は650x3=1950kwとなっている。
ギア比は3.60だが、駆動方式が違うため単純に他の機関車と比較はできない。
常磐線は平坦であることから単機での使用が前提となり、EF60のように正面はパノラミックウインドウを使用した非貫通構造となっている。
なお、37号機だけはパノラミックウインドウではなく、DD54後期型の様な独立4枚窓となっていて、独特の風貌てなっている。
ヘッドライトはシールドビーム2灯で、車体に埋め込まれる形で設置されている。
側面はEF61とEF60二次形の中間のようなスタイルで、均等に並ぶ7つのルーバーの上にパテ止め明り取り窓が付き、乗務員室の窓はEF62初期型同様の、この時代に標準的な引き違い式になっている。
制御方式はスタンダードな抵抗制御だが、電動機が3機しかないため直列段の次はいきなり並列段となっている。
交流機器としてはシリコン整流器とトランスを用いて整流し、直流回路に流しているが、常磐線用ということもあり交流50Hz専用となっている。
塗装は電車を含めて交直流型標準だったローズピンクこと赤13号である。

客車列車を牽引するため電機暖房装置が取付けられたが、半数は電機暖房装置を省略した貨物用となった。
(ただし、暖房不要な時期には貨物用機も旅客列車を牽引した実績はある)
水戸線電化対応で昭和42年に13両が増備されたが、このグループでは仕様変更が見られる。
具体的には、
・動力伝達方式の変更とそれに伴う台車の変更。
・乗務員室窓がEF65と同じ片側がHゴムで固定されているタイプになった。
・ヘッドライトが埋め込み型からやはりEF65の様な外に出ているものに変更。
・ルーバー上の明り取り窓がHゴム固定に

以上、車体関係は同時期に製造されたEF65等と近いものになった。
これらは二次形と呼ばれ、それ以前は一次形と呼ばれる様になった。

なお、昭和43年頃に1号機から10号機までは20系客車対応のブレーキ装置を設置し、ブルートレイン「ゆうづる」に優先的に使用された。

さて、EF80の運用として特徴的なのは、そのほとんどが常磐線と水戸線に限られていた事だろう。
しかも、デッドセクションを通過する列車に重点的に使用するため、とほとんどが上野~平間と水戸線に限られていた。
数少ない例外として、総武線や外房線の一部での運用のほか、東北本線の宇都宮機関区のEF57やEF58の救援として上野~黒磯(郡山)を走った事もあるようだ。
総武線の貨物を除けばいずれにしろ稀なケースだった様で、実質的に常磐線・水戸線専用機と言って良いだろう。


さて、昭和47年頃から昭和50年頃にかけて一次型を対象に改装工事が行われている。
主な内容は、

・運転席窓を引き違い式から二次形と同じものに変更。
・前面窓上に庇を設置
以上の二つの工事は必ずしも同時ではなく、片方だけ施工してある姿を撮影したものが確認できる。
なお、前面窓の庇が付けられた理由は、雨天の時などに窓や窓上に付着した水滴が風圧で流され、埋込まれたヘッドライト部分のくぼみに溜まって腐蝕を招くのを防ぐための様だ。
この庇のために独特の表情となり、外観的には大人しいEF80に強烈な個性を与えている。
なお、当然ながらこの庇はヘッドライトが飛び出ている二次形には施工されていない。

さて、交直流用としては交流60Hzにも使える汎用形のEF81が登場しているが、常磐線はEF80の牙城となっていて、無関係の存在になっていた。長大編成の夜行列車や普通列車、1200t貨物列車など大活躍をみせた。


しかしながら、周辺環境の変化がEF80にとって思わぬ変化を与える事になった。
昭和54年頃になると動力分散化やモータリゼーションが進み、客車列車は減少し、貨物列車は競合するトラックに荷物を取られ減少していた。
必然的に電気機関車の余剰が発生し、それは交直流用機関車も例外ではなかった。
常磐線とは無縁の存在だったEF81が常磐線に姿を表す様になったのである。

常磐線自体は上野発の夜行列車もまだ多く、長距離普通列車も
常磐道の整備も比較的遅かったためか相変わらずの活躍をみせていたが、EF81は伝統的な釣り掛け駆動にMT52モーターを使用し、出力も2550kwとEF80より大きかった。
また、EF80は特殊な駆動装置を使っているのでEF81に比べて保守の手間がかかり、運用コストがかかるものだった。
こうなるとEF80よりEF81の方が使いやすいのは明白で、客車列車や貨物列車の減少で余剰が発生したEF81が常磐線に来るにつれてEF80は余剰となり、昭和55年から車齢20年未満にもかかわらず廃車が発生。
さらに東北新幹線上野開業や高速道路の整備が追い討ちをかけて常磐線自体の貨物や客車列車が減少。
東北本線用に配置されていた分のEF81も常磐線へ振り向けられ、昭和61年までに全車が廃車となり、鉄道車両としてはまだ若い部類ながら過去帳入りして行ったのだった。

なお、JR東日本で36号機と63号機が静態ながら保存され、今でもその姿をみることができる。

2.我が家のEF80
我が家のEF80はMICROACE製の一次型である。
同製品はほぼ絶版であるため、オークションで入手したものだ。
庇の付いた晩年仕様で、EF80らしい姿である。
ナンバーはメーカー決め打ちの5号機で、旅客用のため電暖表示灯も表現されている。
車高が高くやや面長だが、さほど雰囲気は悪くない。
動力は当りのようで、MICROACEにしてはよく走ってくれる。
屋根上の高圧線が派手な印象で、このあたりの表現は大手二社に及ばないところであろうか。

導入目的は無論常磐線の夜行急行(「十和田」等)と長距離普通列車牽引用である。
なお、運転会では友人のブルートレイン「ゆうづる」を牽引したこともある。

改装工事後の姿なので厳密には昭和37年~昭和40年代末期の列車に使うのはダウトなのだが、とりあえずはそのまま使っている。

なお、MICROACEからは二次形と変形窓の37号機が製品化されているが、二次形は密かに欲しいと思っている。

狭い運用範囲故にNゲージでは製品化に恵まれなかったEF80だが、近日中にはKATOも一次型を発売予定とのことだ。
庇の付いた晩年仕様で既に持っているMICROACE製と被ってしまうが、ディテールのよいKATO製を買って晩年用とし、余剰となるMICROACE製はディテールアップを兼ねて改装前のスタイルにしてみたいところだ。

3.EF80つれづれ
EF80を始めて知ったのは、友人が持っていた鉄道図鑑だった様に思う。
「急行十和田号」とのタイトルだった様に思うが、庇の付いた非貫通の顔に車体側面に付いた電暖表示灯、後ろにくっつくスハフ42とスハネ16が得体の知れないオーラを放っていて、強烈な印象だったのを覚えている。
また、これらと薄れたローズピンクに裾の低い車体が、ブルートレインを引くEF65と比べてひどく野暮ったい印象で、正直言えばカッコイイとは思えなかった。
また、丁度東北本線のスハフ42に乗ったばかりだったこともあり、「あのボロ汽車が急行に使われるのか!」と変に感心したのを覚えている。
その数年後に新松戸駅で上りの客車普通列車に出くわしたのだが、EF80を先頭に猛スピードで通過して行く普通列車の姿を見て以来、EF80は自分の中でも「インパクトの大きい機関車」の最上位に付けられ、その順位は暫く変わることはなかった。
以上から、EF80というとどうも垢抜けない印象と、いわゆる青い旧型客車を思い出してしまうのだが、今となってはそれが素晴らしく良い味を出している様に思える。
なので、二次形が「ゆうづる」のヘッドマークを付けて颯爽と24系を牽いている姿を見ても、格好はよいがEF81でも見ている様な気分になってしまうのだ。
故に、間違いなく旧型客車のよく似合う新型電機の一つだと思う。
そんな電気機関車が軽量化対策とはいえ、先進的なカルダン駆動を採用しているのは面白い。
電車では一般的な駆動方式だが、大出力モーターが必要な機関車では構造が単純で堅牢な釣り掛け駆動を使用することが多く、EF80以降最新型のEF510でもカルダン駆動は採用されていない。
また、カルダン駆動でも1台車1モーターというのは珍しい。
国内ではEF80の他に試作機のED46と関門トンネル用のEF30位のもので、電車でも東急6000系(初代)で採用されたにすぎない。
東急6000系では経済性を狙ったものだったがやはり複雑な機構でメンテにコストがかかり、製造も少数にとどまっている。
結局これが寿命を縮めたような形だが、同じ様に先進的なクイル駆動を採用したEF60が、不具合が多くてリンク駆動に改造され、使用環境の差はあるものの結果的にEF80より長生きして、現在でもその内の一機が動態保存されているというのはなんとも皮肉な話である。


EF80は運用範囲やその垢抜けないスタイルから地味な存在だったが、貨物列車・普通列車からブルートレインまで幅広くこなす常磐線の顔だった。
そして、旅情豊かな何往復にもなる常磐線経由の「上野発の夜行列車」の、まごうことなき主役の顔だったのだ。


次回はDD51を紹介の予定です。


写真1枚目:晩年仕様のEF80。庇がついて凄みのある顔つきになった。乗務員扉後ろの電暖表示灯が旅客用機であることを示している。

写真2枚目:屋根上の「走る変電所」
交流電化・直流電化の両方を走れる機関車ならではのものだ。

写真3枚目:スハフ42を牽くEF80。やはりEF80には旧型客車がよく似合う。

TR40、TR47台車

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乗り心地の向上を狙って戦後製の客車に使用された、ウイングバネ式台車である。

主にオハ35系最後期(スハ42のグループ)、スハ43系(およびマロネ41等の端境期のグループ)、スロ50、スロ60に使用された。

枕バネは当初のTR40では4連板バネ式だったが、TR40Bでは2連となり、さらにブレーキユニットを電車と同等としてTR47となった。
なお、スロ53とスロ54はTR47登場後の形式だが、TR40Bを履いている。

安定した乗り心地には定評があったが、鋳造品であることから重量がかさみ、冷房改造や電気暖房装置設置に伴う重量ランクを維持するため、軽量なTR23へ置き換えられる事例や、逆に重量に余裕がある場合は優等車両の乗り心地改善のためにTR23等からTR40やTR47に履き替えられる事例も発生している。
また、TR47自身もオハ46等に使用された後期製造のものは肉抜きなどを行って軽量化されている。
なお、マロネ41を近代化改装する際に乗り心地をオロネ並に向上するため、TR40の枕バネを板バネから空気バネに変更し、TR40Dとしている。

余談だが、1988年にオリエント急行用客車が来日して国内を走った際に、本来の台車は標準軌用でJR線内で使用できないことから、このTR47をバネ調整のうえ履かせている。

写真はスハフ42が履くTR47

TR11台車

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釣合い梁式台車の一種。
国鉄客車では主にオハ31系までの客車と、木造客車を鋼体化したオハ60系に使用された。
木造客車や17m級の客車までに使用することを前提に作られたため、20m級の大型鋼製車体をもつオハ60系では高速域でひどい揺れになった様だ。

写真はスユニ61のもの

ウイングバネ式台車

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軸箱守の両側にコイルバネを配した台車。
軸受けから羽が生えた様にバネを配置していることからこの名前が付いている。
派生形として、バネの中心に円筒形の案内軸を設けたシュリーレン式台車がある。

総じて乗り心地がよいが、機構が複雑になり重量がかさみやすいためか、機関車や電車・ディーゼルカーでは広く使用されたものの、客車ではスハ43系以降採用されていない。

代表的な台車形式
・TR40
・TR47
・DT21(電車)
・DT22(ディーゼルカー)


写真はスハフ42のTR47

シュリーレン式台車

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ウイングバネ式台車の一種で、軸箱守と台車枠の間にダンパ機能を円筒形の案内軸とコイルバネを用いて軸受けを支えているもの。
乗り心地は良好だが機構が複雑で保守の手間がかかる。
近畿車両で主に製造され、近鉄電車を中心とした電車に広く採用されているが、国鉄客車ではオシ17に使用したTR53とTR57のみである。

写真はオシ17のTR53

軸バネ式台車

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昭和初期から現在に至るまで広く使われている台車。
車軸の上にバネがあり、通常は車軸を支えるすり板(ペデスタル)がある。

代表的な台車形式
・TR23
・TR50
・TR73(三軸)



写真1枚目はオハ35が履く戦前型の軸バネ式台車の代表選手TR23。

写真2枚目は戦後型客車のオハニ36が履くTR52。軽量客車用のTR50を在来型車体用にアレンジしたもの。

写真3枚目はマロネ29のTR73。3軸台車とはいえ軸受け部分はTR23と同じ様な形をしている。